“最新コング”は“最初から最後まで怪物”
3度目のリメイクである今作には、この構図がない。
オリジナル版を含めた過去作で、コングは神と見なされて生贄を捧げられる存在である。今作でもコングは髑髏島における神と呼ばれているが、生贄を要求する神ではない。むしろ生態系の覇者である頂点捕食者(トップレベル・プレデター)として君臨している。神は人間のつくったフィクションだが、頂点捕食者は地球の生態系が選んだ存在だ。だから今作のコングは生贄も必要としないし、人間の女性を巡って三角関係に陥ることもない。これまでのコング映画は、異なった文明の神を、その座から引きずりおろし、西洋の資本主義文明によって制圧する物語だった。コング(神)を人間(文明)の側に堕落させ、調教する物語だった。今作のコングは、最初から最後まで怪物(モンスター)として描かれる。これが「キングコング映画」としての最大で最高のアイディアだ。こんな怪獣像に日本の特撮怪獣映画の影響を見ることができるだろう。例えば『モスラ』や『大巨獣ガッパ』では、未開の島から都市にやってきた怪獣は、生贄にされることなく島に帰っていく。
コングが文明社会に召喚されるのではなく、文明社会とは異なる自然がむき出しになった髑髏島に、人間が放りこまれる。無力な人間たちは、コングと戦うのではなく、生態系そのものと戦い、サバイバルし、脱出する。コングという異文化を生贄とし、西洋文明の延命をはかるのではない。今作には、過去の『キングコング』が描いたような生贄はいないのだ。
生贄とは未知なるもののことでもある。未知なるものを征服し調教する。あるいは未知なる異文化と対比することで、文明風刺をすることも可能だ。そのことで西洋文明は活性化する。かつての帝国主義と植民地の関係そのものである。