“新しいテクノロジー”の不在は“確信犯的”
しかし今回の『キングコング』にはそれがない。新しい技術的手法をプラスしてはいない。もちろん、モーション・キャプチャーと手打ちのアニメーションという既存のテクノロジーによってILMがクリエイトしたコングの表現は素晴らしい。だが、最新のテクノロジーでコングを見せることは今作の目的ではない。
アイディアがなかったからか? 技術的に停滞してしまっているからか? そうではない。ジョーダン監督はそれを確信犯的にやっている。
これまでのコングが、1933年版を親として進化の系統樹を進んだのに対して、今回のコングは別の進化を辿ろうとしている。それはストーリーとコングが生息する髑髏島の世界観を見ればわかる。テクノロジーの革新ではなく、物語の革新によって新しいコングを生み出したのだ。
過去3作に共通する“コングの末路”
1933年版のコングは世界大恐慌の末期が舞台である。本作がヒットしたのは、時代を覆っていた経済的不安のせいだとも言われている。不安を克服するためにエンタテインメントが求められたのだ、と。実際にストーリーもメタ的である。映画監督が新作の撮影のために、無名の女優とともに髑髏島に向かう。そこで巨大な猿、キングコングを見つける。撮影を諦めた監督は、コングをニューヨークに連れて帰り、見世物興行をして一山当てようとするのだ。見世物にされたコングは脱走するが、殺されてしまう。コングはビジネスとしてのエンタテインメントのメタファーである。死んでしまう、つまり消費されてしまうのだ。
1976年のギラーミン版はどうか。時代は2度のオイルショックのはざまである。石油採掘のために島に向かった石油会社の社員がコングを発見する。しかし油田の石油が商品にならなかったのでコングを連れて帰る。見世物にされたコングは殺される。
2005年のピーター・ジャクソン版は、オリジナルと同様の時代設定(1930年代)にしたリメイクなので、コングは同じ末路をたどる。
過去の3作では、未開の地から資本主義の都に連れてこられた見世物(=ビジネス)のコングは消費され、死んでしまうのである。髑髏島では神として生贄を捧げられていたコングは、文明の地で生贄にされる。なぜか? 経済的に不安定で社会不安に満ちた文明の地で停滞した時間を更新し、安定させるためである。