混迷の時代に求められる哲学とは何か? 注目の哲学者に聞く「哲学の時代」シリーズ第2回は、国家論でデビューし、『カネと暴力の系譜学』では「カネ」と「ヤクザ」をキーワードにユニークな国家論を展開した津田塾大学教授の萱野稔人さん。前回に続く後編では「哲学者はどう時代へ発言すべきか」、そして「今、哲学的に考えることの意味」を聞いた。(1回目はこちら)
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国家批判ばかりしていてもしょうがない
――戦後の実存主義ブーム、60年代の構造主義ブーム、80年代のニューアカブーム、そして90年代のポストモダンブームなど、多くの人が哲学に興味を持つ「哲学ブーム」なるものが、これまで繰り返されてきた気がします。今後またそういったブームが来ることはあると思いますか。
萱野 ブームというか、何かを一新しよう、という動きはあると思います。ここ最近の流れを簡単に言うと、まずはポストモダンが流行って、それが日本の左翼言論に取り入れられ、国家批判やナショナリズム批判、フェミニズムなんかに広がっていきました。しかし、2000年代半ばくらいから少しずつ、国家批判やナショナリズム批判ばかりしていてもしょうがないという風潮が出てきて。何か次のことを考えようという段階に今あると思います。
――「国家批判ばかりしていてもしょうがない」というのは、一冊目の『国家とはなにか』のテーマでもありますよね。
萱野 そうです。1980年代から90年代前半、ポストモダン思想が日本の哲学界を席巻していた頃、論壇では「いかに国家のくびきから自由になるか」が説かれていました。当時学生だった僕自身も、「国家とは無垢の人びとを抑圧するものであり、本質的に悪いものだ」と国家を批判的に見ていました。
しかし、研究を進めていくうちに、国家がなくなったとしても戦争も力による支配もなくならない、むしろ暴力を管理する方法として国家以上のものをあみだすことはできないのではないかと考えたのです。決して本の中で「国家は暴力の運動のうえになりたっているものだから批判すべきだ」とか「国家は悪だ」と主張したかったわけではありません。「善悪」の判断をいったんカッコに入れて、国家という存在を思考し、理解することがこの本の目的でした。ただ、世の中ではその本質は読まれていなくて「国家の暴力性を暴いた」と言われたり、国家批判の論客としてみなされたり、不本意なこともありまして……。
――なかなか全員には伝わりませんよね。今後もそういった「論壇を変える、批判する」という一役を担いたいとお考えですか。
萱野 いえ、もうあまり思想論壇そのものに興味がなくなってきているんです。そして思想を使った社会批判が成立する時代は終わったと思っています。遠くから、大風呂敷で権力を批判することに、もう説得力はない。もっと事象に肉薄していかなければ駄目だと思います。