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今、真夜中に考えていることは「食べることの矛盾」

―― では、現在は真夜中にどんな問題を考えているんですか?

檜垣 やっぱり「自分ではどうしようもできないこと」にどう向き合うかが僕のテーマで、いま考えているのは「食べること」についてです。食べるという行為には人間の矛盾が如実に表れているんですよ。

―― 矛盾ですか?

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檜垣 ええ、例えば人間は生き物を殺して食べているけど、犬とか猫とかを殺すと警察に通報されますよね。どちらも生き物を殺す行為には違いないのに、どこで線引きがされているのか。どこまでが許容されて、どこからが悪いことなのか。正面から問われたら、矛盾してるなあと気づく。

研究室にて

―― なかなか明らかな答えを出しにくい問題ですよね。

檜垣 あと、日本人って尾頭付きの刺身とか平気で食べますよね。でも外国人は「顔があるものは食べられません」って言う。日本人は魚に対しては他の動物とは違う独特の感性を持っていると思うんですが、それもとことん考えてみると、やっぱり矛盾している。なんで、魚の頭は大丈夫で、鶏の頭があったら抵抗感があるのかとか。そうやって人間って、矛盾していることを先鋭化させないようにやりくりして生きているんです。

―― 生きていることは矛盾を抱えることである、と。

檜垣 そうです。『豚のPちゃんと32人の小学生』っていう映画にもなった本を教材にして、授業であつかうこととかよくあるんです。それなりに有名な話なんでご存じかも知れないんですけど、大阪の小学校で命の授業として豚を飼って食べようと実践したクラスの話ですね。その中である女の子が「Pちゃんを殺さないで」と泣きじゃくるんですけど、きっと晩ご飯にカツカレーが出たら喜んで食べるとおもうんです。でもその女 の子は何も悪くない。そこにあるのは、人間という存在が持つ矛盾そのものなんです。

小津を揃えたのはドゥルーズの影響なんですよ

工学部の学生から「先生の講義ほど意味のない講義は初めてでした」って

―― Pちゃんは殺せないけど、カツカレーの豚は平気というのはどこに違いがあるんでしょうね。

檜垣 一つは顔があるかないか、もう一つは名前があるかないか、でしょうね。顔とか名前があることで、ある存在が「かけがえのない個体」として出現しちゃうんですよ。顔の問題についてはレヴィナスとかが論考していますし、名前についてはクリプキの論が有名です。

 

―― こうした根源的な問いかけを突き詰めていくのが哲学なんだと思いますが、学生に伝わらないなあ、話が通じてないなあと思うときはありませんか?

檜垣 ありますよ(笑)。自分はリーディング大学院という、研究科に関係ない、文理統合のような組織の授業ももっているんですけど、工学部のやつが「先生の講義ほど意味のない講義は初めてでした」って言うんですよ。何を話したかというと、「競馬というものは当てることに意味があるのではなくて、当たることに意味がある」という偶然性についてなんです。でも、彼に言わせれば、競馬を考えるということは「最大効率で儲けるには、どんな確率計算をして、どんな買い方をすればいいのか」を追究すること、その一点じゃないかと。だから「意味がない」って。

―― ストレートですね。

檜垣 こうやって言われたら激怒する大学の先生が多いと思うんですが、僕は「よし、彼に爪痕を残せたな」と思いました(笑)。「僕は君みたいには考えないんだよ」と答えたんですけど、こうやって世界には別次元で考えている人がいるとか、「意味がない」ことを考えている人がいるってことを知ってもらうのは、社会的に意義があるはずだと思っているんです。

若いということと暴力とを考えるとき、相米慎二の映像は本質的。自分の青春と重なります。こうの史代さん『夕凪の街 桜の国』は、ある意味で生きることはすべて戦争だということを描いていて逆にとても印象的。元気になります