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生きるということは「うろたえ」の連続である

―― 文学や哲学を大学で教えることをめぐっては「意味がないから」とか「実学性がないから」こそいいんだという考え方も中にはありますよね。

檜垣 でも、そうやって開き直っちゃおしまいで、意味がないことの意味を問い詰める必要があります。例えば、さっきの工学部の彼が言うことは「合理的」なんですよ。そりゃ、自分で競馬工学が解明できて、儲けられりゃそれに越したことはない。ただ、世の中は大体が「不合理」なんですよ。社会だって人生だって、現実というものは、なんだか訳のわからない出来事が、偶然目の前に出現して「うろたえる」ことの連続です。生きているっていうことは、そういうことだと思うんです。だから、合理とか効率を追求する一方で、人生で避けられない不条理とか、矛盾とか、それをどう呑み込んで生きていくかを考えていくことは、理屈だけの実用性のない意味のないことのように思えて、実は意味がある。僕はそう思っています。

 

―― では「文系学部廃止論」についてはどうお考えですか?

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檜垣 文系研究者は特に自分の研究の意味を問い詰めなければならないんだと思います。それができないなら、廃止したほうがいい。意外と自分の領域を守りたい学者って多いんですよね。こもっちゃう人が多くてびっくりしています。本当は別領域の人や学生と議論したほうが、知的に健全だし、自らの研究の意味がわかるはずなのに。あと、日本の文系研究のガラパゴス化問題は、いよいよ憂慮すべき事態ですよ。

―― どういうことですか?

檜垣 最近毎年ドゥルーズに関する学会がアジアで開かれて、来年はフィリピンで行われるんですけど、必然的に発表は英語になるんです。僕自身はドゥルーズはフランス哲学なんだから、フランス語でしょうなんて思うわけですが、これはもう世界の趨勢だから仕方がない。で、もはや日本以外の院生はみんな当然のように英語でしゃべるんですよね。僕は日本の人文学は明治以降150年、独自に発展してきて、しかも1億人以上の日本語の読者がいたというバックボーンがあったこと自体は誇るべきだと思う。これ自体は重要な「日本の知」です。でも、今の凄まじいグローバル化は賛成反対にかかわらず進行していくだけだし、その流れの中で世界から取り残されているのが日本の大学院という状況なんです。逆に台湾や韓国の優秀な院生は本当に世界を見ていますよ。それで日本語も英語も中国語もできたりする。これでは日本の学者はどうしようもないな、取り残されているだけだなと強く感じます。

 

人間存在を脅かすAI、シンギュラリティの問題が発生しているからこその「哲学の時代」

―― 日本の哲学研究が孤立しないように後進を育てることも、今後の使命になってくるのではないですか。

檜垣 自分で言うのもなんですけど、競馬に例えると、僕はわりと好位に付けてレース展開している研究者人生だと思うんです。今もバロック哲学に関する本を出そうとしたり、またホワイトヘッドやパースとかのアメリカの哲学についていろいろ翻訳や紹介も行いたいなと思っています。競馬だけじゃなくて、アカデミックな仕事もしてるんですよ(笑)。それに加えて、後進を育てる仕事もちゃんと取り組まなきゃならないと思っています。哲学者って基本的に暇なはずなんですけどね……、色々やることはある。

―― ということは、これからも時代は哲学を必要とし続けるという確信が、檜垣さんにはある、と……。

檜垣 人間の存在とは何か、言語とは何か、芸術とは何か、神とは何かといった哲学は、人間が自然と対峙したときに生まれる「何だこれは」「どうしよう」といった「うろたえ」によって展開してきたところがあると思うんです。それは現在も変わりません。どんなに技術が進化して合理的な世の中になっても人間は常に不測の事態に巻き込まれるし、うろたえ続ける。だから哲学は展開され続けるし、必要とされ続けると信じています。いやむしろ、人間存在を脅かすようなAIだとか、シンギュラリティの問題が発生している現在だからこそ、それに対する「うろたえ」とどう共存していくか、どう折り合いをつけていくか、人間としての考えが導かれなければならないはずです。

 なので、僕はけっこう楽観的ですよ。たとえ国家が見捨てたって、哲学は生き残るんです、絶対に。

 

ひがき・たつや/1964年埼玉県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。著書に『ベルクソンの哲学』『西田幾多郎の生命哲学』『賭博/偶然の哲学』『哲学者、競馬場へ行く』などがある。