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松田優作の死から30年……崔洋一監督が116分間の「メモリアル・ライブ」を蘇らせた理由

「だんだん僕自身も死の世界に近づいているのは間違いない」

盟友でも親友でもない“独特の距離感”

――ドキュメンタリーの中では、水谷豊さんが「優作さんは笑っている姿が一番印象深かった」と仰っていました。

 うん、うん。わかりますね。

――では崔監督が松田優作さんを思い出すときに、最初に浮かんでくるのはどんな姿なのでしょうか?

 そうですね……。最初に彼と会ったとき、たまたまなんですけど、僕は彼の家から2、3分のところにあるアパートに住んでいたんです。その後、一度は離れたんですが、しばらくして僕が善福寺に引っ越したら、今度はすぐ近くに松田優作の家が建ってたんです。公園を挟んで向かい側に。もう嫌になっちゃって(笑)。

 

――それも偶然だったんですか?

 うん、本当にたまたま。今度も歩いて2分くらいの距離で。でも、変な話なんだけど、僕らが麻布で飲もうとか、銀座で飲もうというときは、わざわざ別個に行って、現地で会うんですよ。それで帰りも、一緒に帰ってくればいいものを、なぜかバラバラに帰ってくる。僕らの付き合いはそうでしたね。

 考えたら僕は、助監督時代を除いて、彼とはテレビドラマを1本やってるのと、あとはコマーシャルを何年もやってたという、それだけなんですね。それでも……何だろうなあ、よく盟友とか、親友とか、そうした書かれ方をするんです。傍から見ればそういう側面もあったのかもしれないけど、僕自身はやっぱり、彼とは独特の距離感があったのかな、と思います。

忘れられないニューヨークの旅

――崔監督が松田優作さんに出会ったのは何歳のときだったんでしょうか。

松田優作氏(1978年) ©産経新聞社

 27歳のときです。だから、たかだか13年なんですね。27のときに出会って、40のときに別れていますので。それは、今思えば短いんだけども、濃密な時間を共有していたというのはありますね。ニューヨークに古着を買いに行ったりね。あれも忘れられない旅だなあ。1日に15、6店は平気で回って、山のように買ったから。ちょっとでっかいアジア人2人が、1ドル、50セントをひたすら値切るんだから。

――それは強烈な旅ですね(笑)。