昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/02/26

裏切ってナポレオンと共闘し、さらに裏切るタラーレン

(3)1794年、ファナティックな革命原理主義者ロベスピエールによる恐怖政治が終焉し、その翌年から、無能で不安定なDirectoire(総裁政府)が開始された。タレーランは96年に帰国し、その翌年、人脈を使って外相のポストを獲得した。

 しかし彼は短期間で総裁政府の無能ぶりに見切りをつけて、当時イタリア戦線で華々しい戦果を挙げていた英雄将軍ナポレオンに近づいた。そして1799年、ナポレオンとタレーランは「ブリュメール十八日のクーデター」を起こした。タレーランは、自分を外相に登用してくれた総裁政府をあっさり破壊したのである。

ナポレオン像 ©iStock.com

(4)クーデター後、ナポレオンとタレーランはConsulat(統領政府)を設立し、1804年には、ナポレオン帝政を作った。タレーランは両体制の外相を務め、帝政では皇帝侍従長も兼任するようになった。

 しかし1806年以降、ナポレオンとタレーランは外交と戦争政策で明確に対立するようになり、07年、タレーランは外相を辞任した。タレーランはナポレオンの外交政策アドバイザーを続けたが、同時に彼は墺露両政府から賄賂をとって、ナポレオンの戦争を妨害し始めた。常に冷静で冷酷であったタレーランにとって、ハプスブルク(墺)帝国、プロイセン(プロシア)帝国、ロシア帝国、大英帝国という当時の欧州四大帝国のすべてと長期戦争を続けるナポレオンは、「フランスの敵、そしてヨーロッパの敵」となったのである。

復活したブルボン王朝でも首相兼外相に就任

(5)1813年秋、ナポレオンの対露遠征が大失敗であったことが明らかになると、タレーランは活発なナポレオン帝政破壊工作を開始した。1789年にブルボン王朝に打撃を与える革命運動に加担した「大貴族」タレーランは、1813年になると、「ブルボン正統主義」を提唱する守旧派勢力の指導者に変身したのである。

 そして1814年5月にブルボン王朝が復活すると、ナポレオン帝政の外相であったタレーランが、またしても外相に就任した。

©iStock.com

(6)1814年秋~15年春のウィーン会議においてフランスの国益を守ることに大成功したタレーランは、15年夏にブルボン王朝の首相兼外相となった。しかしタレーランの1789~1813年の苛烈な裏切り行為を決して忘れていなかったルイ18世の側近たちは、国王を説得してタレーランを解雇させた。

 失脚したタレーランは「リベラルな反体制派」に再変身して、元老院における政策討論でブルボン王朝の“保守反動”政策に反対し続けた。そして1830年に「七月革命」が起きると、タレーランは即座に反ブルボン派のルイ・フィリップ王を支持したのである。この革命の後、「七月王政」はタレーランに外相就任を要請したが、すでに高齢(76歳)であったタレーランはそれを断り、次の4年間、ロンドンで駐英大使を務めて長い外交家のキャリアを終えた。