国際政治史において重要な仕事を成し遂げた、外交家・タレーラン(1754-1838)は、スリル満点で波瀾万丈の人生を送った悪人であった。
「悪辣な政治家」が、ナポレオン戦争後の敗戦国フランスを救うために実行した、大胆な忠国外交とは――。
※本稿は、伊藤貫著『歴史に残る外交三賢人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。(全2回の2回目/#1も公開中)
1814年春のパリ条約におけるタレーランの活動は、素晴らしいものだった。常に冷静で大胆で狡猾であったタレーランは四戦勝国(英露普墺)を相手に堂々と敗戦交渉を行い、戦勝諸国にフランスの要求をほとんど呑ませてしまったのである。以下にその行動を簡潔に解説したい。
「ナポレオンはいずれ大失敗するだろう」
1814年4月のフランスは無政府状態であった。ナポレオン敗北とフランス政府崩壊に驚いた国民は、茫然自失の状態であった。
当時ソルボンヌ大学の歴史学教授であったフランソワ・ギゾー(後に仏首相となった)は、「敗戦時、すべての国民が虚脱状態であった。国家危機の真っ只中で、誰も行動しようとしなかった。人々は不平不満を並べたてるだけで、何も実行できなかった。フランス政府の高官たちは自分が逃げ出すことに忙しく、祖国の運命には無関心であった。フランス国民は、『今後、自分たちがどのような国家を望んでいるのか』ということを具体的に考える能力すら失っていたのである」と回想している。
このような全国民の虚脱状況にあって、「ナポレオン失脚後のフランス」に関して準備していた人物が一人だけいた。タレーランである。
彼は1805年から「ナポレオンはいずれ大失敗するだろう」と冷酷に予告していたから、フランスの敗北にまったく驚かなかった。1813年からタレーランはナポレオン失脚後の政治体制をいろいろ構想していたが、14年になると、「もう一度、ブルボン王朝を復活させるしかない」という結論に達した。
タレーラン自身は、ブルボン家が好きではなかった。しかし「現在のフランスを内乱・内戦から救うためには、もう一度、ブルボン家を利用するしかない」という苦渋の結論に達したのである。