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天守の完成年が話題に! 信長の戦略も読み解ける丸岡城の魅力

坂井平野を望む、北陸唯一の現存天守

2020/03/10
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「現存最古」の天守か? 

 現存する丸岡城の天守は、建築上の特徴などから、天正4年に柴田勝豊が築城した頃の創建とされてきました。しかし一方で、瓦に本多氏の家紋である三つ葉立葵紋が刻まれていること、最上階に新しい建築様式も見られること、慶長18年の絵図に描かれていないことなどから、本多成重が城主となった慶長18年以降の再建とする説もあり、創建年代が明らかになっていませんでした。

天守の屋根には、珍しい石瓦が葺かれている。青い石は笏谷石、黄灰色の石は滝ヶ原石。
鬼瓦も笏谷石でできている。

 しかし、2015~18年度に行われた本格的な学術調査により、現存する天守は柴田氏時代ではなく、本多氏時代の寛永期に創建されていた可能性が極めて高くなりました。本多成重が城主を務め、丸岡藩が立藩した頃の創建と推定されます。

 一般的に、元和元(1615)年の武家諸法度公布後は、城の改修や修繕にも幕府の厳しい規制がかかり、天守の新築は特例に限ると考えられています。創建年代の解明は、全国の城の歴史を考える上でも大発見。寛永期に丸岡城の天守が造営されていた事実はかなり興味深いところです。

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父は“三河三奉行”として知られる家康の重臣

 成重は福井藩2代藩主・松平忠直の後見役、付家老として家康から越前に派遣された人物です。成重の父・本多重次は三河三奉行のひとりに数えられる家康の重臣で、成重自身も幼少時、結城秀康(於義丸)が豊臣(羽柴)秀吉の養子となった際に大坂へ同行しています。1623年に忠直が失脚したのを機に、福井藩から離れて初代丸岡藩主として独立した経緯があります。

天守南面の出格子窓。

 丸岡城天守の創建はちょうど丸岡藩が成立した時期と重なりますが、全国の例をみると、必ずしも立藩を機に天守を築くわけではありません。犬山城(愛知県犬山市)の天守を増築した成瀬氏が、尾張藩の付家老だったことも興味深いところです。

 丸岡藩の成立と城の整備のかかわりは今のところはっきりわかりませんが、成重の存在と丸岡藩の成立が天守造営の背景にあったことは間違いありません。文献上、成重が天守を造営した記述はありませんが、成重による城の整備や天守の建設は十分にありえそうです。