1ページ目から読む
3/3ページ目

築城時に天守はあったのか

 天正期の丸岡城に天守があったかは判明していませんが、現在の天守台は石材の加工痕などから慶長5(1600)年以前、柴田氏時代もしくは青山氏時代の築造である可能性が高いと推察されています。天守台があるならば、おそらく天守も建っていたのでしょう。慶長期に描かれた「越前国絵図」にも、三重の天守が描かれています。

 近年の発掘調査では、天守台の南面の地下から張り出し部の石垣が見つかり、少なくとも現在のような独立式ではない天守の構造が明らかになりつつあります。今後の解明が楽しみなところです。

天守台南面。くぼみの部分から、基底部につながる張り出し部の石垣が発掘された。
笏谷石の五輪塔も石垣に転用されている。

信長が開発した最新式の城を取り入れた?

 築城年の天正4年は、信長が安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始した年です。全国の城に天守や石垣が導入されるのは信長の城がはじまりで、安土城は実質的にその代表例とされます。

ADVERTISEMENT

 信長が開発した当時最新式の城を、近しい家臣の柴田勝家、その甥の勝豊が導入していた可能性が高いといえます。天正期に丸岡城が築城されたという事実は、注目したいところです。

笏谷石製の鯱。昭和の修理の際に差し替えられた。

 今回の調査で確認された、天守台の床下空間も興味深いところです。2尺5寸(75センチ)ほどしかなく、姫路城(兵庫県姫路市)の天守のような穴蔵(地階)ではありません。勝家や勝豊と同じく天正4年頃から信長の命令で金森長近が築いた越前大野城(福井県大野市)、天正13(1585)年から長近が改修した松倉城(岐阜県高山市)、天正10(1582)年以降に森氏が築いた美濃金山城(岐阜県可児市)でも、近年同じような地下空間が確認されています。

 類似例を含めて検討することで、柴田氏時代の丸岡城天守の姿が浮かび上がってくるかもしれません。

撮影=萩原さちこ

 丸岡城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」3月号の連載「一城一食」に掲載しています。

※「文藝春秋」編集部は、ツイッターで記事の配信・情報発信を行っています。@gekkan_bunshun のフォローをお願いします。