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「特効薬はありません」ひきこもりの家族に私たちはどう接すればいいのか

『改訂版 社会的ひきこもり』より #1

2020/03/23
note

相手を信じる大切さ

 希望を捨てずに待つという姿勢は、それ自体が本人に好ましい影響をもたらします。「待つ」ということはまた、冷静に構えるということでもあります。本人の言動や、わずかな状態の変化に一喜一憂せず、長期的展望を持ってどっしりと構えること。家族がまず専門家に相談すべきなのは、こうした展望をしっかりと確保するためでもあります。つまり「ひきこもりは簡単には治らない」ということと、「ねばり強く十分に対応を続ければ、必ず改善する」ということの二点を、深く理解するためです。治療のなかでときどき起こることですが、本人がある日突然、理由もなく活動的になったり、意欲的になったりすることがあります。こんな場合に「やっと目を覚ましてくれた」などと、手放しで歓迎すべきではありません。思春期に起こる急激な変化は、しばしば精神疾患のはじまりを意味していることが多いからです。一見よい変化にみえたとしても、理由や方向がはっきりしないものであるなら、むしろ十分に注意しなければなりません。

 もちろん、ただ待てばよいというものでもありません。変化を待ち受けつつも、水面下での絶え間ない努力が必要です。家族間の意見調整や、家族だけの治療相談なども欠かせません。そして同時に、本人が症状を通じて何を訴えようとしているかを、しっかりとみきわめることです。いたずらな干渉をひかえて、暖かく見守り続ける姿勢が大切なのです。「手をかけずに目をかけよ」と、むかし先輩に教わったことがありますが、まさにその通りでしょう。

治療における「愛」の難しさ

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 治療場面ではよく「本人への愛情を大切に」といった「指導」がなされます。しかし私は「愛」というものは非常に難しい言葉であると考えています。「愛」の素晴らしさを否定こそしませんが、それはしばしば「出来事」としての素晴らしさなのであって、治療の手段としてコントロールできるようなものではありません。「愛情を持って接してください」という言葉を、私もいわなかったわけではありませんが、つねに一抹の虚しさを感じていました。

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 愛情を強要することは、しょせん無理に違いないからです。

 しかし、それでは、治療者は愛についてふれるべきではないのでしょうか。それはそれで、うるおいのない治療になりそうな気もします。果たして、愛を強要せずに、しかも愛をそこなわないやり方が可能なものでしょうか。

 80年代に人気のあったアメリカの小説家、カート・ヴォネガットの本に、「愛は負けても親切は勝つ」というくだりをみつけて、私はそれを何となく記憶していました。「勝つ」とは何に勝つのだろうな、とか、親切がいつでもよいものとは限らない、といった疑問もあります。しかしそれでも、ここには一面の真実がある。私はこの言葉を、ひきこもりの事例を抱える家族へ、1つの激励の言葉として送りたいと思います。