第二段階:女たちの連帯へ
だが、2000年代から2010年代にかけて、そういった秀でた個人としての女性の物語への疑念が生じ、その再検討が行われたように思う。それをもっともよく表したのが、2013年の『アナと雪の女王』であった。
『アナ雪』のダブル主人公、エルサとアナのうち、エルサは第一期の「戦う女性キャラ」を引き継ぐものだっただろう。彼女は圧倒的な魔法の力を持つ美女である。だが、彼女は同時に自らの力の制御に悩み、そのために孤独の苦しみに陥っている。
対するアナは、ディズニー自身の過去作品を相対化する存在だ。彼女はシンデレラ的な「運命の人との出会い」の物語(つまり専業主婦的な物語)をいまどき信じてしまう、ある種時代遅れな人として表象される。
『アナ雪』は、アナによって専業主婦的女性像を否定し、また1980年代以降の「戦う個人としての女性」の苦難をエルサで表現し、最終的にはそれぞれの苦境を二人の愛=連帯によって解決する。『アナ雪』は、80年代以降のポピュラーカルチャーで一般化した個人主義的なフェミニズムの限界を乗り越えようとする作品だったといえるだろう。その結論には女同士の連帯が置かれた。
第二段階が手放さなかった「男性キャラクター」たち
あにはからんや、その後2010年代には、女たちの連帯をテーマにした作品が量産されることになる。先ほど示した三段階のうちの第二段階の到来だ。だが私はこの段階を最新・最終の段階とは見なかった。あくまで二段階目として見た。なぜならこの時期の作品は、女の連帯を描きつつも、「助力者」としての男性キャラクターを手放すことはないからだ。
女たちの連帯をテーマにした二つの作品、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)と『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2019年)を例に考えてみたい。
この二つの作品は、女たちの連帯がその物語の中心に据えられ、感動を与える作品になっている。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、核戦争後の世界で水資源を独占する独裁的首領イモータン・ジョーのハーレムに囲われた女性たちを、ジョーの軍隊を率いる女性隊長のフュリオサが脱走させ、フュリオサが子供時代を過ごした「緑の地」を共に目指すという物語である。
一方の『ターミネーター:ニュー・フェイト』は、ジェームズ・キャメロン監督の「オリジナル」である『ターミネーター』(1984年)と『ターミネーター2』(1991年)の正嫡の続編として作られた新作であるが、大きなトピックとしては、「オリジナル」の二作で魅力を放った「戦う女」であるサラ・コナーが、歳を重ねつつも往年の胆力と戦闘力もそのままに大活躍をすることだった。それだけではなく、『ニュー・フェイト』の新キャラたち、つまり未来の世界で抵抗軍のリーダーとなるべきメキシコ人女性のダニーと、ダニーを守るためにその未来から送られてきた強化人間の女性兵士であるグレースとの、タイムパラドクスのプロットが編み出す守る者と守られる者の交代も含んだ連帯が、印象的かつ感動的な作品になっている。