もうひとつは原題にあるoneである。少し英語を知っている人であれば、固有名詞にoneがついているのはおかしい、と感じるだろう。さらに英語を知っていれば、固有名詞にoneをつけるのは、「~という人」くらいの意味になるというのをご存じかもしれない。つまりこのoneが示すのは、ハーレイ・クインは飛びぬけた、孤高の個人ではなく、ふつうの女の子だ、ということなのだ。ふつうである、というのは、彼女をおとしめることではない。それはむしろ、彼女がこの映画の他のヒロインたちとの連帯のうちにあることを強調している。
強い女性主人公の物語の三段階
私はタイトルだけからそのことを言っているのではない。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』は、近年のスーパーヒロインもの、そしてさらに広く、強い女性(たち)の物語の中でも、最新版として評価できるのだ。
ここで、強い女性主人公の物語の系譜を三段階に分けて考えてみたい。そして『ハーレイ・クイン』を三段階目の始まりを宣言する作品として考えたい。簡単にまとめるとその三段階とは下記のようなものだ。
(1)個人として秀でた女性主人公の物語
(2)女たちの連帯の物語
(3)新・女たちの連帯の物語
第一段階:個人として秀でた女性の物語
映画やアニメなどの文化においては、1980年代以降、女性が主人公となって、主体性をもって活躍する物語がしだいに増えていった。ディズニーに何もかもを代表させるのもどうかとは思うが、そうした変化が典型的にあらわれているので、ディズニー映画を例に見ていくと、1930年代から1950年代の福祉国家期には、『白雪姫』『シンデレラ』といった、女性が白馬の王子様に出会って「主婦」に収まってめでたしめでたし、という物語を、ディズニーは供給した。
しかし、1990年代のディズニー・ルネサンスと呼ばれる時期には、女性キャラクターたちは、基本的には自分の自由を束縛するものからの解放を目指すことになる。『リトル・マーメイド』(1989年)しかり、『アラジン』(1992年)しかり。もっとも先進的だったのは、男装して戦う女主人公の物語『ムーラン』(1998年)であった。
ディズニーから目を離したとき、重要な作品とキャラクターとして指摘したいのは日本であれば『風の谷のナウシカ』(映画版1984年)であり、またハリウッドでは『ターミネーター』(第一作が1984年)のサラ・コナー、『エイリアン』(第一作が1979年、第二作が1986年)のエレン・リプリーである。いずれも戦闘力や知力でなみいる男性キャラに優り、みずから道を切り開く戦う女たちであった。
こういった物語とキャラが隆盛した背景には、ひとつには第二波フェミニズム、もしくはウーマンリブと呼ばれる女性の権利運動とその成果があった。第二波フェミニズムは1960年代から80年代にかけて盛り上がったフェミニズムである。