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 その意味で、『100日後に死ぬワニ』はあまりにも忙しい現代の日本人に向けて、新しいアプローチで作品とファンの関係性を開拓したと言える。ファンたちはどんな環境でこの作品を楽しんだのかほんの少しだけ思いを馳せてみよう。

 おそらく、満員の通勤電車で帰宅するとき、1日の家事が終わったとき、夜勤前の夕食の時間に、あるいは疲れ果てて寝る前の娯楽として、スマホのスクリーンの中で動物たちと生活を共有したのだろう。映画や美術館に飾られる芸術作品が人々の生活との接点を見出すことが難しくなっている時代に、これだけ人々の生活に入り込んだことはそれだけで見事なことだ。さらに、日常の限られた時間の中でファンとの間に情緒的紐帯を作り、死と生について考える内省的な感情を生み出したことは肯定的に評価すべきことだ。

 物語の結末自体はクリシェ(紋切り型)に満ちているが、親友のネズミがワニに対して送った桜の写真がスマホ上に映るという演出は、このネット時代における作品とファン、そして社会と個々人の関係性をも自己言及的に表現している。 

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ファンはこれからどうすべきなのか? 

 だとしたら、ファンたちはどうすべきだろうか?ジェンキンスに倣うならば、ファンたちは自分たちが感じたことを、真面目なやり方でもちょっと不真面目なやり方でもいいから、ツイッターに書けばいいのだ。

 ジェンキンスは、文化的活動へのファンの主体的で積極的な参加を、本人の成長や満足だけでなくコミュニティーの成熟や民主主義の実践のための重要な契機だと考えている。作者は電通は最初から関わっていないと発言しているが、仮にこれが電通が全てを仕込んだ「人工芝」だったならば、ファンが不快感を感じるのはもっともだ。

 かといって「電通案件」として事態を矮小化することは、この作品がもともと投げかけたメッセージ自体をも毀損することになる。『100日後に死ぬワニ』のファンたちがこの作品の「メメント・モリ」というメッセージに価値を見出すのならば、ファンたちはきっとこの作品によって波だった心の動きをもっと繊細な言葉やもっと機知に富んだパロディーでツイッターに書くことができるだろう。 

 

※ヘンリー・ジェンキンスの議論は本年度中に晶文社より刊行予定の著者邦訳『コンヴァージェンス・カルチャー(仮)』(阿部康人、北村紗衣、渡部宏樹訳)をご覧ください。