喜美子だって、八郎に依存していた
――八郎と三津が寄り添って仮眠しているシーン、火の番をしていた喜美子は2人の様子を見てしまいます。その後もどんどん薪をくべるけど、窯焚きは上手くいきませんでした。炎と喜美子の精神状態がリンクしているようで切なくなりました。
水橋 喜美子だってやっぱりまだ八郎に依存していたんですね。「穴窯」は本当に1人になって、「1人でやる」という強い決意を持って挑まないと、成功しなかった。やり遂げることが出来るまでの、そういうことを描きたかったところなんで。八郎が家を出て行く必要はなくて、一緒に穴窯をやればよかったじゃないかという意見もあると思うんです。でも一緒にやったらそれはもう喜美子の作品じゃないですよね、夫婦の作品になります。ものづくりとは、最後は孤独なものだから。穴窯に魅せられた喜美子の「業」でもあるでしょう。
「女であり陶芸家でもある」と受け容れられない理由
――なるほど……。「八郎は昭和の男だ」と言い切ってしまうこともできると思うんですが、なぜ喜美子を「女であり陶芸家でもある」と受け容れることができなかったのか。どうしてもそこが気になってしまいます。
水橋 そこはやっぱり、八郎が喜美子に陶芸を教えていますからね。我が家の話になってしまいますが、うちも私が脚本家で夫が演出家(フジテレビのディレクターで映画監督でもある中江功氏)ですから、同業者夫婦みたいなものなんです。ただ、出会った頃は私のほうがすでに脚本家として自立していたのに対して、彼はまだADだったんですね。私のほうが収入も多かったし、家賃もほとんど私が出していた時期もありました(笑)。そういう格差がすでにある状態で夫婦になったので、私の仕事に対して今さら嫉妬とかなんてないだろうし、その後も平等に生きることができたのかも……と考えることがあるんですよ。
喜美子と八郎もそれぞれが自立していて、陶芸家として認められた同士で出会っていれば、違っていたと思うんです。でも、土もまったくひねったことのないところから出会った喜美子が、自分をどんどん追い越していくわけですから。それと同時に八郎は自分の作品づくりがうまくいかなくなるという、八郎の気持ちを思うと……。八郎だって完全な人間じゃないですし。なんといってもまだ若かったんですね。
――周りには、喜美子と八郎のような状態に陥った同業者夫婦はいらっしゃいますか?
水橋 「スカーレット」の取材で、陶芸家同士で一緒になったというご夫婦にお話を伺いました。奥さんのほうが「あなたは(陶芸家を辞めて)私の作品を売って」とご主人に言ったそうです。言われたご主人は「分かった」と。「陶芸家を『やめたくない』とは思わなかったんですか?」と尋ねたら、「明らかに、彼女のほうが才能があって、いい作品を作っていたから」と言っていました。もともと彼は展示会で売ったり仕切ったりするのが得意で、そういうことが好きだったという要素も大きかったようです。でも内心は相当の覚悟はあったのではないかと勝手に想像したんですけど。「陶芸はやっていないです」と仰っていて、それを聞いて、奥さんの作品づくりを支えることは、何かを捨てないと出来ないものなのかと思いました。
写真=末永裕樹/文藝春秋
【続き】「スカーレット」脚本家・水橋文美江が「死ぬことよりも、どう生きたかを描こう」と決意するまで
みずはし・ふみえ/石川県出身。中学生の頃から脚本を書き始め、フジテレビヤングシナリオ大賞への応募をきっかけに、1990年脚本家としてデビュー。NHK名古屋「創作ラジオドラマ脚本募集」佳作、橋田賞新人脚本賞を受賞。映画、ドラマの脚本を数多く手がける。作品に、テレビドラマ「夏子の酒」「妹よ」「みにくいアヒルの子」「ビギナー」(フジテレビ系)、「光とともに」「ホタルノヒカリ」「母になる」(日本テレビ系)、「つるかめ助産院」「みかづき」(NHK)など。夫は、フジテレビディレクターの中江功氏。