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何のために走っているのか……為末大が振り返る「日本人初のメダルを獲った」あと

『新装版 「遊ぶ」が勝ち』(中公新書ラクレ)より

2020/04/02
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メダルを獲ったその瞬間から、何かが変わった

 メダルを獲ることは、僕にとって大きな目標だった。

 獲るまでは、それはすごくインパクトのある目標で、深い意味があることだと思えた。

 積み重ねてきた悩みや疑問が、さっと一気に消えるだろうと思っていた。

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 だが、いざメダルを獲ったその瞬間から、何かが変わった。

 次もまた、メダルを期待されるようになった。今度は銀だ金だと、周囲の期待は大きく膨らんでいった。そして、次から次へと課題が外から課されるようになった。世の中から、大きな声援が寄せられるようになった。みんなが「勝ってくれ」と言う。「僕が勝ちたい」のではなくて、「勝ってほしいと言われるその声に応えなきゃ」「結果を出すために確実な練習をしなきゃ」と思い始めた。

 僕は、いつしか何のために走っているのかがわからなくなっていった。

 走るモチベーションの源になるものについて、悩んだ時期だった。

©文藝春秋

遊び感覚に満ちて楽しそうに見えるのはなぜか

 選手は、競技を持続していく自らの活力を、どこから得ればいいのだろうか。

 この課題は、決してスポーツの世界だけに必要とされているテーマではないだろう。仕事や学習といった外から期待されること、他からの要請で行うことに共通するテーマだ。こうした期待や要請に活力を持って取り組むことは、どこまで可能だろうか。

 こうした取り組みに、「遊び」の要素はなかなか入りにくい。

 反対に、自分から自然に始めたことなら、どうだろう。自分から飛び込んでいった能動的な作業ならば、人は「遊び」の感覚や楽しさを持ちやすい。クリエーターやアーティストが、仕事をしている時でさえ遊び感覚に満ちて楽しそうに見えるのも、きっと同じことなのだろう。実際にはいろいろな苦労や雑事や悩みを抱えているにもかかわらず、なぜか外部にそう感じさせないのは、そこに何か理由があるからだ。

 クリエーターやアーティストの多くは、自分から選んだ道を仕事にしている。

 人は、自発的にやっている仕事なら、そこに何らかの楽しさを見つけられるはずだ。

 遊びには、どうやらそうした自発性というものが、深く関係していそうだ。