1985年に生まれて4月で35歳になった僕は、90年代を取材現場で過ごしたわけではない。ただ、甲子園球場にいた記憶だけは、今でもはっきりと残っている。これまでも、ふとした時に思い出すのだが、必ず目の前に現れるのが、なぜか「グリーンウェル」なのだ。虎党の方ならご存じの方はきっと多い。ただ、ポジティブなイメージや感情は生まれないはずだ。「マイク・グリーンウェル」はある意味でタイガースの助っ人史にその名を残す人物。そして、プロ野球と出会った僕にとっても忘れがたき男であることも間違いない。

1997年5月グリーンウェル ©文藝春秋

他の選手とは格が違っていたグリーンウェル

 1997年、小学生だった僕は母に連れられて初めて「聖地」に足を踏み入れた。当時、少年野球チームに所属しサウスポーという希少性だけで投手を任されていた。「将来はプロ野球選手に」とぼんやりと夢も描いていた。そんな状況で、憧れの「プロ」が目の前にいる。胸は躍った。と言っても、すでにホームチームの練習は終了しており、一塁側のネットに張り付いてずっと対戦相手だった広島カープの選手の打撃練習を眺めていた。当時、主力は新庄剛志、桧山進次郎らでエースは藪恵壹。それでも、プレーボールがかかって一際、声援を浴びる人物がいた。背番号が39だったのは最近、知った。メガホンを叩く多くの人たちは、グリーンウェルという外国人への期待を隠そうとしなかった。

 この日は確かゴールデンウイークだったので5月。すでに開幕から1カ月が経ち、厳しいファンの“品定め”は終わっているはずだったが、事情があった。春季キャンプ中に故障を発症して米国へ一時帰国。スポニチのバックナンバーを調べれば、公式戦デビューは5月3日の広島戦とある。おそらく、自分が観戦していたのは、この日だったのだ。開幕前に離脱するような助っ人には、ハナから期待しないほうがいいのかもしれないが、グリーンウェルは他の選手とは格が違っていた。

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 名門のボストン・レッドソックスで中軸として活躍し、オールスター、ワールドシリーズにも出場した超大物。年俸も4億円という正真正銘の“メジャー契約”でタテジマに袖を通した。米国で積み上げた実績だけで見れば、今でも球団歴代最高クラスの助っ人と言えるだろう。そんなスラッガーが、ケガを克服して本拠地でようやく初打席を迎える。これはファンにとっては、ビッグイベントに他ならない。地響きのような歓声を生み出していた。