当時、中国ではちょうど後漢が滅んだ頃である。おそらく中国本土の混乱から逃げようと、朝鮮半島や日本へやってきた人が大量にいただろう。
そう、いつの時代だって、グローバル化――つまりは文化の交流と、疫病の流行はセットなのである。
グローバル化が進んだ奈良時代、遣唐使が持ち帰った疫病
グローバル化がさらに進んで奈良時代。天平9年(737年)、疫病が爆発的にひろまった。
遣唐使、遣新羅使によってたくさんの文化が持ち込まれたところだった。しかし同時に、彼らはおそらく疫病を持ち帰りもしたのだろう。疫病(おそらく天然痘だったのではないかといわれている)は、九州から広まった。
どれくらい大流行したかといえば、日本史を勉強した人なら一度は聞いたことがあるだろう藤原四兄弟(藤原不比等の子供たちのこと。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)。当時の為政者だった四兄弟、全員が疫病で突然死してしまうのである。
完全に藤原一家の無双状態だった政権は、「うおお四人とも!? 亡くなった!?」とてんやわんや。この突然の亡くなりようをおそれた人々は、「藤原四兄弟が自害に追い込んだ長屋王の呪いでは……?」と噂まで流すようになった。
しかし今考えると、呪いというよりも、一家で仕事をしてずっと一緒にいりゃ、そりゃえんえんと「三密」の状態であろう。感染が広まってしまうのも当然なのだった。
ちなみにこの疫病は、藤原四兄弟にとどまらず、当時政治を担っていた公卿たちをも襲い、その約1/3が亡くなったと言われる。今でいえば、総理大臣や各省庁大臣の1/3が亡くなるようなもんである。『シン・ゴジラ』もびっくりだ。
「三密」が奈良時代に知られていたら、日本の歴史は変わっていたのかもしれないが……。
「とにかく東京を離れたい」ならぬ「とにかく都をうつしたい」
しかし「三密」など知らず、長屋王の呪いをおそれた聖武天皇は、「仏教」を広めることと「遷都」に生涯を注いでゆく。
ご存じ、奈良の大仏を建てたのは聖武天皇だし、平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮と都をうつしまくったのも聖武天皇だ(結局、地震が続いたことが原因で、平城京に都を落ち着かせたのだが)。
「なんでこんなに遷都したんだよ……」と後世の人からも言われているが、ロックダウンなんて選択肢もなかった時代、「とにかく東京から離れたい!」と言わんばかりの「とにかく都をうつしたい!」という衝動だったのかもしれない。