「三密を避けましょう」「家族と会うのも避けましょう」という言葉、奈良時代のひとびとに伝えてやりたかった……と今なら思う。 

 なぜなら奈良時代はつくづく感染症に苦しめられた時代であり、なんなら感染症によって歴史が変わった時代だったからだ。 

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 まさか令和の時代が、世界中で猛威をふるう感染症からスタートするとは、だれが思っただろうか。 

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 思えば、「令和」という元号は『万葉集』が出典だ……という話を去年の4月に寄稿していた。あのときは万葉集で詠まれた歌みたいに想像力がもっと膨らむ時代になればいいな~と思ったものだったけれど、完全に平和ボケした頭の発言であった。現実は思いもよらないもので、令和の最初は、元号の出典となった『万葉集』の時代――つまり奈良時代とおなじく感染症に悩むこととなってしまった。 

 そう、じつは万葉集の時代とは、中国からの文化や知識によって文化が発展した一方で、同時に天災と感染症に多くの人が苦しんだ時代でもあった。 

 ある種のグローバル化(国外からの文化の流入)、それと同時に引きおこる疫病。そもそも、奈良時代に大仏が建ったのも、遷都が繰り返されたのも、今でいうところの「感染症の流行」が原因だったのだ。 

福岡県太宰府市の大宰府展示館にある、「梅花の宴」を再現した人形(ただし、当時本当に梅が咲いていたかは疑義が呈されている) ©時事通信社

「民の半分以上が死亡した」崇神天皇即位5年

「日本は昔から天災が多かった」なんてよく言われるけれど、実際のところ、火事や地震よりも、当時のひとびとがおそれていたのは「疫病(流行りの感染症)」だったらしい。疫病が流行るのが、一過性の火事や天災よりもこわいの、今ならちょっとわかる気がする。 

 たとえば日本最古の歴史書である『日本書紀』には、崇神天皇即位5年(3世紀初期)、「国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」なんて記述がある。民の半分。おそろしい。