昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

100年前も“マスク転売ヤー”が? スペイン風邪45万人が死んだ日本、大正の人々はどう生き抜いたか

2020/04/14

 今次コロナ禍では緊急事態宣言が1都6府県に発令されたが、1918年に日本に上陸し、その終息まで丸2年を費やした100年前のパンデミック・スペイン風邪では、当時の日本の総人口約5600万人に対し45万人が死亡するという大惨事だったが、ついぞ国が主導して緊急事態宣言やそれに類する法律の発令をすることは無かった。

「緊急事態宣言」を出さなかった2つの要因

 要因のひとつとしては、平均寿命が44-45歳と現在の半分強しかなかった当時、結核を筆頭とした感染症による死は「当たり前の光景」であり、日本人や日本政府全体の公衆衛生に対する意識が低かったこと。

 もうひとつは、日本が第1次大戦に連合国軍側として参戦し、とりわけロシア革命でロシアが協商から離脱した1918年以降、日本がロシア極東地域に干渉戦争を行っている最中だったこと(シベリア出兵、~1922年)があげられよう。つまり日本はスペイン風邪というパンデミックの最中、戦時だったのでまず政府のリソースはそちらに向かざるを得なくなっていた。加えてスペイン風邪終息後間もない1923年には関東大震災が起こり帝都が壊滅。日本政府は東京圏の復興に全資源を集中させざるを得なくなった。スペイン風邪はこのような激動の時代に日本を襲ったパンデミックであった。

 スペイン風邪に対する公的な対処は、このような情勢の中、警察を管轄する内務省が主導した。内務省のもとに各道府県に指示がなされ、全国一律の対策ではなく、各道府県ごとにその対応はまちまちと言ったところであった。

100年前のスペイン風邪流行のさなか、マスクをして登校する日本の女子生徒たち ©getty

「市部」の人口が2割に届かなかった

 というのも、大正時代の当時、現代とは人口分布がまったく違っていたのである。スペイン風邪の最中である1920年(大正9年)、日本の総人口約5600万人のうち、市部に住んでいたのはわずかに18.0%と2割に届かず、残りの8割は郡部に住んでいた。つまり、総人口の8割強が農村に居住していた「農村社会」が大正時代の日本の姿であった。第1次大戦で戦勝国となり「世界五大国」として名目上栄達したかに見えた日本帝国の実態とは、大多数の国民が郡部で暮らす「半農国家」だったのである。

 現在、市部に住む人口は日本の総人口1億2000万人超に対して9割を超えている。このような社会では、大都市部を抱える人口過密地域に対して、人と人との接触を自粛したり、通勤・通学量を減少させたりするのは効果があると思われるが、大正時代はそもそも大都市部の人口がマイノリティだったので、そのような「要請」が行われることが基本的に無かったのである。

「学校閉鎖」「工場停止」……それでも感染爆発が起きた

 そのような中、内務省を中心としてスペイン風邪に対する対処は地域によって濃淡はあるものの粛々と行われた。小学校・幼稚園で学童・児童に感染者が出た場合、学校を閉鎖したり、また工場が数週間~数か月の操業停止を行う場合があった。この辺りは現在の状況と極めてよく似ている。

 しかし結果として感染は止まらず、45万人の日本人が死んだ。なぜか。