借りたお金を返さない人が多い件で、韓国のネットで格言のように出回っている画像があります。「お金を借りて返さない人の心理」というもので、オンライン講座で有名なある講師が話した内容の、字幕付きキャプチャーです。
そこには、「借りた人は、借りたお金を自分のものだと思ってしまう。だから、返す行為を、『奪われる』と思ってしまう」となっています。奪われるというのは自分が損をするわけですから、この指摘は、先の「相応の対価」(相手に下になってもらう)と同じ考え方だと見ていいでしょう。
借りたお金はすでに「情」で支払ったから返す必要はない
対価というのは、それをもらわないかぎり「公正」にはなれないという意味でもあります。その側面から、平等、またはニュートラルについて考えてみるのはどうでしょうか。
「返す」は、貸し借りの関係をニュートラルに戻す行為です。AがBにお金を貸したと仮定して、単純に債務関係だけを考えると、BはAからお金を借りた時点でマイナスで、Aにそれを返したことでAとBの関係はプラスマイナス・ゼロになれるわけです。なのに、返す時にBがAに対価を要求するとなると、それはニュートラルが崩壊してしまいます。
そう考えると、韓国社会は、「両方が対等な関係で事柄を決める」(借りたなら、返さないとニュートラルに戻れない)をうまく認識できないでいる、とも言えましょう。韓国人の「公正」に対する認識が、そのまま表れているわけです。
では、さすがに韓国人全員とは書きたくないですが、社会問題となるほど大勢の韓国人が、いったいなぜニュートラルを認識できないのでしょうか。お金は借りたら返すべきものだとする極めて基本的なことを知らないでいるのでしょうか。
借金返済を求めるのは「ひどい仕打ち」?
正しくは、認識できないわけでもなければ知らないわけでもありません。ただ、その必要性を感じないでいます。すでに「情」で支払ったからです。まさしく、「知り合いが泥棒である」です。
韓国の親たちが、子に孝道契約書を要求するようになったのも、「知り合いが泥棒である」を経験したからではないでしょうか。自分の子とて、泥棒になるかもしれないと思っているのです。孝道契約書は、ある意味、経験により学習した、自己防御の手段かもしれません。
親子でも裁判沙汰が多いと聞きますが、韓国社会の一般的なウリで、その「知り合い」という名の泥棒に「お金を返せ」と責め立てると、ほぼ決まった反応が見られます。
「お前が俺にこんなことをしていいのか」「俺は今まで我慢してきたんだ」「これだけは言わないつもりだったが」などなどです。
もっと分かりやすい言語体系にしますと、「私は悪くない。今まで『情』によってウリを支えてきた私に、たかがお金でこんな仕打ちはひどすぎる」の類です。