会社勤務で稼いだ金を突っ込んで
中国の神社跡地は未調査の分野であったので、戦友会の会報などに載っている当時の地図から神社の場所を特定するなど、資料発掘までやるようになった。その成果は、この地図にまとめてある。
ちなみに撮影費用については、協力関係にあった神奈川大学の資金を利用させてもらったこともあったが、基本的に会社勤務で稼いだ金を突っ込んでの撮影で、大赤字である。本をつくる時間を捻出するために、職を辞め、なんとか本ができ、次の勤め先を探し始めたところで、疫病で世界が一変してしまった。嗚呼。
ここで、海外神社の創建から終焉まで、駆け足でみてみたい。平壌神社は在野の敬神家が「余は仮令ひ神社狂と綽名を受くるも敢へて辞する所にあらず、誓って神社建設の目的を達するに努力すべし」という覚悟で創建運動を始めた。
南京神社は、南京事件以前より居留民会会長が神社創建を提唱していたが実現せず、日本軍が南京を占領した後、創建が決まった。また、昭南神社は、シンガポールを占領した25軍を率いた山下奉文の鶴の一声で創建が決まった。
誰かが声をあげると、その声は雪だるま式にふくれあがり、軍や役所が後ろ盾となり、神社創建に到った。植民地に移住した邦人は特定地区にまとまって住んでおり、そこは広大な大日本帝国領の中に浮かぶ島のようなものであった。島の外は、現地人の世界。こうした植民地に神社を創建するということは、植民地も神国の一部であり、植民地への入植者もまた神国日本の臣民であり続けているということを示す象徴的な行為であった。
地鎮祭のような祭祀は植民地の邦人にとっても欠かせぬものであったし、紀元節などの祝祭日の祭りなども、せねば落ち着かぬものであったろう。満蒙開拓団の一つ、永安屯開拓団が創建した永安神社は、団本部の近くの山の中腹に建てられた。団の最大の娯楽である秋祭りの時には、開拓団の代表者と共に地元の中国人保長も参列し、玉串を納めた。
平壌は戦前、東洋のエルサレムと称されるほどキリスト教徒が多い街であった。そうした街で平壌神社への参拝が強制され、参拝を拒否したキリスト教系の学校は閉校に追い込まれた。なお、この時閉校した学校の一つは、朝鮮戦争後、ソウルの京城神社跡地に再建され、今もある。邦人にとっての常識にすぎなかった神道・神社を、現地人にも強制するようになった時、現地人は神社をどう見たであろうか?