終戦時、平壌神社は8月15日の夜に焼き討ちにあった。昭南神社は軍によって爆破処理され、御神体はマラッカ海峡に沈められた。樺太がソ連軍によって占領された後、樺太護国神社はソ連兵のダンス場になった。
「日本人のあるところ必ず神社あり」と言われた程、植民先に神社を造ることは当時の邦人の常識であった。しかしながら、海外神社の実態はほとんどわかっておらず、やっと全体の輪郭が見えてきた程度である。
神社跡地の現況は
最後に、掲載した神社跡地の現況を手短に説明する。台中神社の遺構が、台中公園の中に保存されており、本殿基壇跡の上には孔子像が安置してある。南京神社は社殿・社務所が現存し、文化財として保存されている。泉神社は密林の中に放置されたままである。
永安神社跡地には土饅頭が並び、階段だけがぽつねんと残っている。平壌神社跡地には、朝鮮戦争後に再建された牡丹峰劇場が建っている。昭南神社の巨大な遺構は史蹟に指定され、密林の中に残されている。樺太護国神社跡地の本殿基壇跡に写っている鍋などは、ホームレスが住んでいた痕跡である。陸軍南満工廠と共に文官屯神社が創建されたが、その跡地には2基の鳥居がいまだに建っている。
比島神社跡地には、比日友好センターのビルが建ち、ビル内にかつて神社があったことを記した説明板がある。東山神社跡地は長城東山公園になっており、山頂には神社の石材や鳥居の柱が放置されている。太原神社跡地は何の痕跡もない。後醍醐天皇に仕えた名和長年を祀る名和神社の境内入口に立つ注連柱は、戦前に名和公精神を称揚していた鳥取教育会が建てたものである。
神社という大日本帝国を象徴する施設の遺構は、戦前の精神の墓標であると言えるだろう。
疫病下の世界で、国境を越えることが急激に困難になってしまったが、国境を越えての移動が容易でなければ、大日本帝国の神社跡地をここまで網羅することはできなかった。これらの写真が戦前の精神と共に、移動の自由の墓標とならないことを祈っている。
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