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【現場主義の意味を取り違える経営】

「危機の時こそ現場主義だ!」とか言って、現場に降りて行って、現場の意見を聞き、その意見に共感してその通りにすると約束し、本当にその通りにやろうとする経営者もダメ。真珠湾攻撃の後でも、戦艦大和を建造中の現場で頑張っている連中は「もう航空戦の時代なんだからこんな巨大戦艦はいらない」とは言ってくれない。撃沈寸前の大和の甲板でも、水兵に「まだ頑張れるか?」と聞けば「頑張れる」と答えるに決まっている。真の現場主義経営とは、現場の実態、最前線の実態をありのまま知ったうえで、そしてもちろん現場で汗をかき血を流している仲間に共感したうえで、時には現場に厳しい決断を下すことである。現場の思いに迎合することではない。

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【情理に流される経営】

 経営力は決断力╳実行力で決まる。実行力はすぐれて情理の産物であり、組織全体が一団となって盛り上がれば大きな力が出る。しかし、決断力はすぐれて合理の産物であり、そこで意思決定権者が情に流されると大きな判断ミスにつながることは、歴史上の幾多の決断局面で証明され、古典作品にもそういう場面はたくさん登場する。キャッシュ残高の戦いなどは典型だが、これはほとんど血も涙もない数理の世界であり、合理的にしか動かない。危機の経営は明確に合理が情理に優先するのだ。中途半端で薄っぺらな情けをかけるリーダーは、かえって多くの人々を不幸にする文字通り「薄情者」経営者になる。修羅の世界は「非情の情」の世界である。その場はどんなに恨まれても、10年後、20年後に(まだ自分が生きていれば)感謝されたら御の字と覚悟できないやつは危機時に操縦かんを握ってはならない。

【空気を読む経営】

 べからず集のエッセンスはこの一言で置き換えてもいい。危機においてその場の空気なんてそもそもどうでもいい。コンセンサスなんてクソくらえだ。必要なのは、生き残る確信と、そのための合理的で冷徹で迅速な判断力と実行力のみである。危機後をにらんだ取り組みの始動も同様だ。大量のリストラの後、あるいは最中に、新しい事業に投資し必要な戦力を新規採用する、積極果敢にM&Aをする、といった迅速果敢な「手のひら返し」は、喪中な会社の空気を読んで逡巡していたら不可能だ。ぐずぐずしている間に再成長のビッグチャンスはあっと言う間に目の前から消え去る。