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天災で崩れても、やっぱり名城! 「石の要塞」と呼ばれる丸亀城を行く

“60メートル超え”の石垣は大迫力

2020/05/09
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 丸亀城は、城ファンが「1度は訪れてみたい」とこぞって名を挙げる名城です。最大の魅力は、総高で日本一の高さを誇る石垣。JR予讃線の車窓から見える姿はヨーロッパの古城を連想させるほどで、「石の要塞」というべき威容を誇ります。

 丸亀城の石垣は、山麓の内堀から山頂の本丸まで4段に重なり、高さは合計すると60メートル以上に及びます。標高66メートルほどの山に曲輪をひな壇状に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集し、石垣が折り重なって見えます。実際に訪れると、城の面積に対して石垣が多く、その迫力に驚くでしょう。

4段の石垣の上に天守が鎮座する丸亀城

讃岐の支城として築かれ、廃城を経て復活

 丸亀城を築城したのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで乱世を生きた生駒親正です。讃岐(現在の香川県)を与えられた親正は、高松城(香川県高松市)を本城とし、西讃岐を押さえる支城として1597(慶長2)年から丸亀城を築きました。1602(慶長7)年には、ほぼ完成したとみられています。

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 1615(元和元)年、江戸幕府がひとつの領国に1城のみを残してそのほかを廃城とする「一国一城令」を公布すると、讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となりました。本来ならばここで城の歴史は終わりますが、丸亀城は異例の復活を遂げています。1641(寛永18)年、お家騒動(生駒騒動)により讃岐が分割され、丸亀藩が新たに成立したのです。

天守は三重三階で、西側に多聞櫓があったとみられる
丸瓦や鬼瓦に四つ目結紋がみられる
四つ目結紋は京極氏の家紋

 5万石で山崎家治が初代丸亀藩主となると、1643(寛永20)年から丸亀城は現在の姿へと大改修されました。現在残っている石垣は、ほとんどが山崎時代の築造とみられます。1645(正保2)年に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」を見ると、縄張はほぼ現在と一致します。天守は山崎氏の断絶後に城主となった京極高和が、1660(万治3)年に完成させました。天守の瓦に京極氏の家紋である四つ目結紋がみられるのはそのためです。