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幕府から資金援助を得て再築か

 注目したいのは、家治が幕府から銀300貫の資金援助と参勤交代の免除を受けて丸亀城を再築していることです。例外的な措置が取られたのは、1637(寛永14)年の島原・天草一揆を受け、幕府が瀬戸内の島々に潜むキリシタンの蜂起を警戒したためでしょう。

 幕府は一揆軍の籠城を防ぐべく、キリシタンが多い九州や瀬戸内海沿岸の城を強化し、廃城になっていた拠点的な城の破却を徹底しています。瀬戸内海に面した丸亀城が築かれた背景には、そうした一面もありそうです。1670(寛文10)年まで、城の大手(正面)が現在とは逆の南側にあったのも、そのためでしょう。

現在の搦手(裏手)。かつては大手と搦手が逆だった
本丸からの眺望。瀬戸内海が眼下に迫っている

豪雨と台風で惜しくも大崩落

 そうした背景で築かれた立派な石垣でしたが、残念なことに2018年7月の西日本豪雨とその後の台風で大崩落してしまいました。崩落したのは、三の丸南西隅の坤櫓跡と、その下段にある帯曲輪の西面・南西面です。丸亀城は、山頂に本丸を置き、山麓に向かって曲輪がひな壇状に配置されています。城の南側は大きく3段になっていて、そのうち中段にある三の丸を囲む石垣の隅角部と、帯曲輪を囲む石垣の一部が崩れました。

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 崩落は3段階に及びます。まず、7月7日の大雨で帯曲輪南面の石垣が崩落。これに少なからず影響を受けたのか、10月8日、台風により帯曲輪西面も崩落しました。石垣の内部に詰められた栗石が少しずつ落ちて石材の隙間が広がり、石垣が歪んだ結果、隅角部が外側に押し出されるようにして大崩落したようです。崩落範囲は南北約18メートル、高さ約16メートルに及びます。

大崩落した丸亀城の石垣(2019年3月17日撮影)

 ここで終わればよかったのですが、さらに翌日、三の丸坤櫓跡の石垣も崩落してしまいました。崩落範囲は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートル。三の丸の石垣は帯曲輪を土台にするように積まれているため、帯曲輪の石垣が崩落したことで安定性を失い崩れたのでしょう。三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険性が認識され、ようやく修復工事に着手する直前でした。工事を目前に控えていただけに崩落は悔やまれます。