古来、この国は疫病の流行や天変地異に幾度となく見舞われた。さまざまな「災厄」は人間の側では制御しえない。人びとはそうした災いを、荒々しい怨霊が引き起こす「祟り」と考えたのである。
怨霊や「祟り神」の気持ちを鎮めるためには、特別なことがおこなわれた。また残された人びとが伝える「物語」が必要であった。
日本史上最大級の怨霊、崇徳院をめぐる物語から見える、日本人の心の奥に潜むものとは――。(全2回の1回目/#2へ)
※本稿は、小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。
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香川県坂出市郊外の白峰山中にある真言宗の古刹・白峯寺は、四国88ヶ所第81番札所として遍路の巡礼者たちがひきもきらずに訪れる。
しかしこの寺は、お遍路さんばかりでなく、「人を神として祀る習俗」に関心のある者にとっても、見過ごせないところである。というのは、ここには保元の乱(1156年)に敗れて流罪になったまま、この讃岐の地で亡くなった崇徳上皇(崇徳院)の陵(みささぎ)とその廟所である「頓証寺殿(とんしょうじでん)」があるからである。「陵」とは天皇の「墓」であり、「廟所」とはその霊魂を仏式で祀ったいわば「神社」に相当する宗教施設である。
崇徳上皇(1119~64)は日本史上最大級の怨霊として後世に名を残した天皇である。これに比肩できるのは、早良親王(追号・崇道天皇)や菅原道真の怨霊くらいであろう。
「生前に死後の怨霊化を決意した」人物はいない
早良親王は光仁天皇の第二皇子で、実兄である桓武天皇の皇太弟となったが、政敵暗殺事件に関与したとして廃太子となり、淡路への配流の途上、抗議のため自ら飲食を断って絶命した。また菅原道真は、学才によって頭角を現し、右大臣に取り立てられるという破格の出世を遂げるが、讒言(ざんげん)にあって大宰府に左遷され、そこで失意のうちに没している。
三者はともに、京での政争に敗れ、あるいは陰謀によって追い落とされて、西国に配流されたという共通点があるが、しかし怨霊としての性格は崇徳上皇と後二者とでは異なっている。早良親王と菅原道真は、確かに悲運に見舞われ悲惨な目にもあったが、だから怨霊になってやろうなどとは思っていなかった。怨霊化したのは、ひとえに、かれらを追い落とした勢力、すなわち勝者の側の「後ろめたさ」に由来するのである。世を騒がせる怨霊のほとんどは、このケースだと言ってよい。
これに対して崇徳上皇の場合は、何と生前から、死後は怨霊となって自分を除いた者たちに復讐しようと決意していたのである。すなわち崇徳上皇は、天下滅亡を呪詛した文言を記した、自らの血で書写した五部の大乗経を残していたのである。それまでの歴史をながめても、このような「生前に死後の怨霊化を決意した」人物はいない。その意味で、崇徳上皇はまったく特異な怨霊なのである。