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誕生時からさしていた不幸の影

 崇徳上皇は、元永2年(1119)、鳥羽天皇の第一皇子として生まれた。母は皇后璋子(待賢門院(たいけんもんいん))である。諱は顕仁。第一皇子と言えば、のちに天皇となる可能性が極めて高い立場にいる皇子である。しかし、かれの場合は誕生したときから、その未来に不幸の影がさしていた。

 というのは、かれは鳥羽天皇の子ではなく、鳥羽天皇の祖父である白河法皇と璋子との密通によって生まれた子と噂されていたからである。自分の妻の生んだ子が自分の子でないらしいと知った鳥羽天皇が顕仁親王を快く思わなかったのも当然であった。実際、鳥羽天皇はかれのことを「叔父子(おじご)」、すなわち「自分の叔父(父の兄弟)でもある子」と呼んでいたという。まさに暗雲が漂っていたわけだが、結果から言えば崇徳上皇は、この暗雲に否応なく身を投じることになる。

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 保安4年(1123)、5歳のときに、顕仁親王は即位して崇徳天皇となり、父の鳥羽天皇は上皇になった。このように書くと、不幸な出生にもかかわらず天皇になれたと思われるかもしれない。しかし、そうではない。当時を院政時代と呼んでいるように、退位した天皇(上皇。仏門に入った場合は法皇。「院」は上皇・法皇の敬称)が実権を握っていた時代であった。

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失意のなかで起こした「保元の乱」

 保延5年(1139)、待望の皇子・体仁親王を得た鳥羽上皇は、すぐさま崇徳天皇に譲位を迫った。本来ならば、崇徳天皇の第一皇子である重仁親王が帝位を継ぐべきところだが、鳥羽上皇はこれを無視し、わずか3歳のわが子・体仁親王をむりやり即位させてしまったのであった。この皇子が17歳で早世することになる近衛天皇である。そして自身も出家して鳥羽法皇となった。永治元年(1141)のことである。

 しかし院政は鳥羽法皇がとり続け、久寿2年(1155)、鳥羽法皇は自分の第四皇子つまり崇徳上皇の弟にあたる雅仁親王を、近衛天皇の次の帝位につけることにしたのである。この天皇が、のちに源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた後白河天皇(のち法皇)である。