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後白河天皇即位により、第一皇子の重仁親王即位の望みが断たれた崇徳上皇は、失意のなかで翌保元元年(1156)、左大臣・藤原頼長と組み乱を起こした。「保元の乱」の勃発である。現在から見れば、この戦いこそ390年続いた平安王朝に幕を引き、「武者の世」を引き寄せる重大なきっかけとなったのだが、無論、かれらはそんなことを知る由もない。
崇徳上皇の最期
勝負は平清盛、源義朝が率いる600余騎の白河北殿急襲により、わずか数時問であっけなくついた。後白河天皇方の完勝である。頼長は敗死し、崇徳上皇は投降した。
崇徳上皇はただちに讃岐に流された。帰京を切望し続けたが許されず、8年の配流生活の末、長寛2年(1164)に亡くなり白峰山に葬られた。享年46。
それでは、崇徳上皇の怨霊が取り沙汰されるようになったのはいつ頃からだろうか。