古来、この国は疫病の流行や天変地異に幾度となく見舞われた。さまざまな「災厄」は人間の側では制御しえない。人びとはそうした災いを、荒々しい怨霊が引き起こす「祟り」と考えたのである。
怨霊や「祟り神」の気持ちを鎮めるためには、特別なことがおこなわれた。また残された人びとが伝える「物語」が必要であった。
日本史上最大級の怨霊、崇徳院をめぐる物語から見える、日本人の心の奥に潜むものとは――。(全2回の2回目/#1へ)
※本稿は、小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。
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怨霊発生の温床は、「亡くなった者は自分を怨んでいるだろう。その恨みの深さゆえに、なんらかの方法で復讐しようと、怨みをはらそうとしているだろう。あの世から災厄を送りつけてやりたいと思っているだろう」という勝者側の思いのなかにある。つまり怨霊は、勝者=加害者側の「負い目」「後ろめたさ」「弱み」の念のなかに、あるいは敗者の非業の死に同情する人びとの心のなかに生まれてくるのである。勝者側やその近辺に生じた災厄や不幸を、非業の死を遂げた者の霊の仕業だと判断したとき、怨霊の「祟り」が発生することになる。崇徳上皇の場合も同様であった。
「崇徳上皇の怨霊の仕業ではないか」
保元3年(1158)、後白河天皇は嫡子・守仁親王(二条天皇)に帝位を譲り、院政を敷いた。もちろん崇徳上皇が流罪先でまだ生きているときにはその生霊を恐れることはなく、崇徳上皇が亡くなってもしばらくはその死霊を恐れることはなかった。また、巷間で怨霊のことが噂されることもなかったようである。
ところが、崇徳上皇が亡くなって10年ほどたった頃から、その名が囁かれる事件が発生しはじめる。すなわち、安元3年(1177)の大火(太郎焼亡)や翌年の大火(次郎焼亡)をはじめとして相次ぐ災厄の発生を、人びとは崇徳上皇の怨霊の仕業ではないかと噂しあうようになったのである。
いつの世でも、こうした噂や社会不安はたちまち社会にゆきわたるものである。その事態を後白河法皇も深刻に受け止めざるを得ず、崇徳上皇の霊の供養をおこなうことになった。安元3年、保元の乱で敗死した藤原頼長を正一位に復し、それまでは「讃岐院」と呼ばれていた崇徳上皇に初めて「崇徳」の号を追贈した。これ以後、崇徳上皇を「崇徳院」と呼ぶようになったのである。
さらに、讃岐の崇徳上皇の墓所を「山陵」と称して天皇陵として扱うようになり、その周囲に塀をめぐらして清浄を保ち、陵を守る者を配置した。さらに寿永2年(1183)には、崇徳上皇の遺子・元性法印(がんしょうほういん)のもとに天下滅亡を呪詛した血書経があることが判明したので、その供養をおこない、翌元暦元年には、ついに崇徳上皇と頼長の霊を祀った「霊社」(神社)を保元の乱の戦場となった白河北殿跡に建立するに至った。その「霊社」はのちに粟田口に移された。当初、この「霊社」は、崇徳院粟田宮と言われて独立した神社であったが、賀茂川のたびたびの水害で、東山粟田口の粟田神社へ移されたとされている。