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なぜ人々は「崇徳院の怨霊」を恐れ、おどろしい物語で伝え続けてきたのか

『神になった日本人』(中公新書ラクレ)#2

2020/05/17
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 京都見物にやってきた羽黒山の雲景(うんけい)という山伏が、道で知り合った老山伏に愛宕山に案内される。愛宕山の仏閣に感心していると、老山伏はさらに「せっかくここまで来られたのだから、愛宕山の秘所もお見せしましょう」と言って、本堂の裏の座主(ざす)の僧坊と思われるところに案内した。なかに入った雲景は、恐ろしい光景を目にすることになる。そこにはたくさんの人たちが集まっていた。老山伏の説明によれば、そこにいるのは悲運の前世を送らざるを得なかった帝や高僧、武将たちであった。最上座に座っている金の鵄(とび)が崇徳上皇、その脇に控えているのが源為朝、その左右には配所の淡路から逃亡する際に没した「淡路の廃帝」こと淳仁天皇、桓武天皇が帝位を手にする過程で除かれた井上内親王、さらには後醍醐天皇、敗者の側に立った僧の玄昉、真済などの面々で、いま天下を大乱に導くための密議をしている真っ最中であった――。

 興味深いことに、崇徳上皇はこの時代になると、黄金に輝く「天狗の棟梁」となっていたのである。

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 崇徳上皇怨霊伝説はその後も語り継がれる。能の「松山天狗」は、崇徳上皇を弔うために西行がその墓陵を訪ねるという趣向である。西行の前に崇徳上皇が現れ、二人は再会を喜ぶが、崇徳上皇は往事を思い出すにつれて怒りの姿に変わり、怨霊としての正体を現す。しかし白峰の天狗たちに慰められて機嫌を直して去っていく。

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 西行は鳥羽法皇の北面の武士であり、崇徳上皇とも交流があった。西行が妻子を捨てて放浪の歌人となった背景に、鳥羽法皇と崇徳上皇との対立、その側近たちの対立が影響していたことも考えられる。もし武士のままでいれば保元の乱に巻き込まれていたかもしれないのである。そうした経緯があったからこそ、後世の人びとが、能のなかに西行と崇徳上皇を呼び出して再会させたのではなかろうか。

失われた王朝時代への郷愁が生み出した

 それにしても、なぜこれほどまでに崇徳上皇の怨霊が脚光を浴び続けたのだろうか。

 おそらく人びとのなかに、崇徳上皇が生まれたことで貴族政治が終焉し、武家政権が誕生することになったという思いがあったからであろう。もし鳥羽上皇の皇后であった待賢門院璋子が白河法皇と密通しなかったら、崇徳上皇は生まれなかった。崇徳上皇が生まれなかったら、保元の乱は起こらず、貴族政治がなお続き、平安の世も続いただろうという失われた王朝時代への郷愁が、崇徳上皇を呼び出し続けたのではなかろうか。

なぜ人々は「崇徳院の怨霊」を恐れ、おどろしい物語で伝え続けてきたのか

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