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なぜ人々は「崇徳院の怨霊」を恐れ、おどろしい物語で伝え続けてきたのか

『神になった日本人』(中公新書ラクレ)#2

2020/05/17

さまざまな物語が生み出された「崇徳上皇の祟り」

 しかし、崇徳上皇の怨霊はなかなか鎮まってはくれなかった。建久二年(1191)、後白河法皇が病になったときも崇徳上皇の祟りとみなされ、その結果、讃岐の陵のすぐ近くに崇徳上皇の怨霊を鎮めるために「頓証寺」が建立された。これが現在も白峯寺内にある頓証寺殿である。

 平氏も崇徳上皇の祟りを恐れ、白峯陵に平時忠らを送って鎮魂の祈願をおこなっている。おそらくは清盛の死や平氏の滅亡、源氏政権の誕生も、崇徳上皇の祟りがもたらしたものだという噂が流れたのではなかろか。

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 後白河法皇や平氏がおこなった、崇徳上皇と頼長の怨霊鎮めのための活動をふまえて、やがてさまざまな物語が生み出されることになった。例えば、その先駆となった『保元物語』のなかでは、崇徳上皇の後白河政権への呪詛の様子が、次のように語られている。

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 崇徳上皇は、乱を起こして多くの犠牲者を出したことを大いに反省し、指先から血を流して3年がかりで書写した五部大乗経を、京都の石清水八幡宮に奉納しようとした。ところが、後白河上皇(当時)の側近である藤原信西入道に拒まれた。怒った崇徳上皇は、その経を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に投げ込み、その力をもって日本一の大魔縁(人心を惑乱してさまざまな災厄を引き起こす天狗)となり、「皇を取って民となし、民を皇となさん」と、舌を噛み切った血で大乗経に呪詛の誓いの言葉を書き付けて、海に投げ入れた――。

「柩から血がこぼれ出て、石を真っ赤に染めた」

 また『源平盛衰記』は、亡くなった崇徳上皇の白峰への埋葬の様子を、次のように描いている。

 都から白峰の山に崇徳上皇を葬るようにとの命令が下り、崇徳上皇の遺体を運んでいる途中、一天にわかにかき曇り、雷音鳴り渡り、激しい雨となった。人びとが柩(ひつぎ)を石の上に降ろして雨が上がるのを待っていたところ、柩から血がこぼれ出て、石を真っ赤に染めた――。

 もうこのあたりから、崇徳上皇は生前から死後怨霊となって復讐しようと思っていたという伝承が流布し、その臨終の際のすさまじい様子が巷間でも語られていたのである。

崇徳院が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間(歌川芳艶画『椿説弓張月』)

名だたる怨霊たちが天下を大乱に導くために……

 崇徳上皇の怨霊=大魔縁のイメージは、時代が下るにつれて肥大化していった。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱を描いた『太平記』(14世紀後半成立か)のなかでは、崇徳上皇は天狗の巣窟である愛宕山に集結する日本の天狗の棟梁として語られるようになる。