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「全然なかったです、夢も」 日比ハーフの少女がフィリピンパブの客引きとして汗を流した時代

『ハーフの子供たち』より #1

2020/05/16
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フィリピンで過ごした幼少期

 レインにとってフィリピンの一番古い記憶は、小学校低学年のころ、家と学校を送り迎えするトライシクルというサイドカー付きバイクだった。

 自分で料金を支払い、送り迎えを依頼する。

 歩くと40分以上かかる上に、気温も高く、教科書も大量にあるので、多くの児童が世話になっていた。

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「お母さんの仕送りで払ってました。裕福ではないですけど、まぁなんとか、プライベートスクールと最低限のものはできました。お母さんは日本で働いてて、お母さんのお姉さん、伯母さんがずっとわたしの面倒見てくれていました」

 フィリピンでは7割が公立であり、少数派の私立学校に通わせたレインの母の気持ちが伝わってくる。

「やっぱり(お母さんに)会いたかったです。だからあんまりちっちゃいときの母さんとの思い出がないですよね。ずっとフィリピンにいたから。ちょっと寂しい。憶えているのが、たまにお母さんが帰ってくるじゃないですか。すると、なんか“お母さーん”って行けないんですよね。ちょっと距離が……。でも、しょうがない、いま思うとしょうがないですよね。

 お母さんは年1回、帰ってくるんです。何か大事な、たとえば、入学式とかあるときとか、お母さんの休みとか。2週間くらいいるんです。クリスマスとかは日本でも稼ぎ時になるからフィリピンに帰ってこれないんですよ。そういう時期をはずして帰ってきました。

 自分もいまそうだから、お母さんの気持ちがわかりますね。お母さんが日本でホステスをしているって、ホステスっていう言葉はわかってました。内容はよくはわからないですけど、でも一度、近所の子にお母さんのことを馬鹿にされたことあって、それはちょっと嫌な感じがしました。なんか日本に出稼ぎに行くって、あんまりイメージよくないんですよ。昔のジャパゆきさんとかそういうイメージで」

 ジャパゆきさんは1983年当時、流行った言葉で、経済大国になった日本に出稼ぎにやってくるアジア諸国の女子労働者をさした造語である。

※写真はイメージです ©iStock.com

 おもに歌手やダンサー、ホステスといった職業の女性たちが来日して、全国各地の歓楽街、温泉街で働いた。

過酷な環境で働くことを強いられた「ジャパゆきさん」

 来日する前に派遣側が選抜審査をするので、若くて美貌の女性たちが多く、日本人男性たちにうけた。

 労働現場は過酷で、言われた額の報酬ももらえず、売春を強要されるケースも後を絶たなかった。

 ジャパゆきさんの語源は、明治、大正、昭和戦前まで呼称された“からゆきさん”から来ている。

 からゆきさんとは、唐行きさんの意味であり、唐は昔の中国をさし、広い意味で外国をさした。