戦前の日本は貧しかった。大家族の農村では現金収入の道が狭く、現金を得るために娘を売るケースがあった。意外なことだが、若い世代に限っていえば、若い女子のほうが男子よりも労働需要が高く、就職もたやすかった。その大半は娼婦となり、いまよりはるかに人権意識の低い時代だったために、多くがなかば騙されて売られていった。からゆきさんの仕事先は世界中に広がり、日本人特有の慎ましさが評判となり、世界各地の娼館で娼婦となった。
彼女たちの多くが現地で一生を終え、平均死亡年齢は驚くべきことに約20歳だったという。衛生管理もわるく、性病対策もルーズだったからだろう。
ジャパゆきさんの多くが辛い目にあっていた
悲劇を身にまとったからゆきさんから派生したジャパゆきさんもまた、多くが辛い目にあった。
なかには、ルビー・モレノのようにフィリピンパブのホステスから女優に転身し、テレビドラマ『愛という名のもとに』(1992年・脚本:野島伸司、フジテレビ)や、映画『月はどっちに出ている』(1993年・崔洋一監督)の演技で主演女優賞を総なめにした稀なケースもあった。
そのルビー・モレノも撮影すっぽかし騒動や、所属事務所との軋轢で解雇され、またフィリピンパブにもどった。いま現在は元の事務所と和解して時折、女優業に復帰しているが。
レインが言葉の壁を語る。
「日本に来た当初は日本語で自分の名前も書けなかったです。言葉はなんとなくわかったんですよ。行ったり来たりしてたから。あと、日本人のお父さんとは日本語で話すし、勉強に厳しかったんですよ。自分はギャンブル好きなくせに。アハハハ。時計の読み方とかを教えるのにすごい厳しくて、こういう針の読み方。2時15分前だとか3時10分前とか。ちょっと間違えると、すぐベランダに出されてました」
義父はレインに勉強を熱心に教える一面もあったが、なにしろあっという間に給料など溶けてしまうギャンブルの徒だから、生活も不安定だった。
小学5年生のときにレインが日本に帰国したときには、義父は消えていた。
3人目の父がある日突然家に
そしてレインの前に新たな人物が登場する。
「3人目のお父さんになる人が家にいました。フィリピン人です、今度は。それで、新しく歳の離れた妹ができました。けっこう離れてますね。お母さんが40何歳のときに産んだから、いま妹は16歳かな。お義父さんに似てますね。女の子って、お父さんに似ますよね」
レインにとって3人目の父は、郊外のある街でフィリピンレストランを開いていた。
「最初はフィリピンレストランだったんですけど、やっぱりフィリピンスナックに変わって、女の子がいるようになって、深夜は他の店からアフターしに来るたまり場みたいなお店になりました。お義父さんと一緒にいたけど、朝は寝てるし、夜は仕事でいないし、弟と2人きりな感じが多かったですね」
レインの母はモテるのだろう。
その分、父の違う3人の子供たちには愛情をそそいだ。
レインは関東地方のある私立定時制高校に通いだした。
ところが2学期で退学した。