中国には司馬遷の「史記」に始まる歴代王朝の事績を描いた二十四史と呼ばれる正史がある。「史記」や「漢書」は人口に膾炙しているが、「日本」という国が生まれた契機となった隋唐の時代を描いた「隋書」や「唐書」(旧唐書、新唐書)は、これまで簡単に読めるものがなかった。
本書は、「隋書」のうち本質部分である皇帝の生涯を描いた「帝紀」全編と后妃や皇帝の子息、有力な家臣たちを描いた「列伝」の中から重要部分を抄訳したものである。なお、わが国については東夷伝の中で、高麗(高句麗)・百済・新羅・靺鞨(まつかつ)(渤海の前身)・流求(今日の台湾)と並んで取り上げられているが、訳文が多数あることを考慮したのか本書では訳出されていない。
ところで、中国ではなぜ正史が発達したのか。それは、易姓革命という政治思想を奉じていたからである。天子は天命を受けて天下を治めるが、もしその家(姓)に不徳の者が出れば、別の有徳者が天命を受けて新王朝を開くという思想である。前王朝を倒した新王朝が正史を編纂するが、新王朝の正統性を示すためには、前王朝の最後の皇帝は必ず不徳でなければならず、新王朝の開祖は必ず有徳でなければならない。そこで隋の煬帝は暗君の代名詞となり唐の太宗は中国一の名君となった。
もっとも正史には創作は許されない。事実を追いながら書き分けていくので正史は面白いのだ。
「帝紀」は、高祖(楊堅)と煬帝(楊廣)の軌跡が中心となる。楊堅は北周の静帝の禅譲を受けて皇帝に即位したが、静帝の詔や策書を読むと禅譲という茶番劇がいかに繰り返し美辞麗句を並べて行われたかが分かる。隋は仏教を重んじたが、高祖の詔にも「仏法は奥深く神妙なものであり、道教は太虚和合を尊ぶ」とあり、仏像等の破壊を断罪している。史書の評価は「民は繁栄して国庫は充実した。最上の治世には足らないが近代の良主と讃えるには十分である」というものであった。
煬帝の時代になると筆は厳しさを増す。佞臣(ねいしん)が皇帝の儀仗を豪華に飾り立てようとして鳥獣で羽根飾りに使えるものが絶滅した話や豪華な行幸の様子が描かれる。煬帝は洛陽に新都(東京)を造営し大運河を開いたが、高麗征伐の失敗などにより国内が乱れて江都で臣下に殺された。そして「有史以来、天下が崩壊し、民草は塗炭の苦しみに遭い、その身を損ない国を滅ぼしたこと、この煬帝ほど甚だしかった者はいなかった」と総括されたのである。
この時代、わが国は統一帝国の出現に驚き六百年から五次に亘る遣隋使を送ったが、帝紀に記載されたのは第三次、第四次のみ。人臣列伝中にも佞臣逆臣が目につくが、煬帝に殺された高祖の名宰相、高ケイ(こうけい)については史書も賛辞を惜しまない。国も会社も拠るべきは結局人なのだ。