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禅僧の言葉(6)《月、星、太陽、風、雨、すべては、あなたの肉体の一部なのです》

ケイレブ・メルビー著『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ 』(集英社インターナショナル)

 ジョブズの不遇時代は10年続いたが、弘文とジョブズ、二人は、この時期にもっとも濃密な交流をしている。なかでもきわめつけは、ジョブズによる同居の提案だった。

 ニューメキシコまでやって来たジョブズは、弘文に「シリコンバレーに戻って欲しい」と、熱烈に懇願した。その頃、ジョブズは、部屋が30室もある豪邸(別名ジャックリング邸)に住んでいたが、「敷地内に家を新築する」とまで言ったという。弘文自身は当初、申し出を拒んだが、次第に、ジョブズ邸をカリフォルニア滞在時の拠点とし、同居するようになった。

 同居中の二人を訪問した弘文の弟子のひとりは、

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「恐ろしいほど広い家なのに、物がほとんどなくてガランとしていた。あったのは、大きなダイニングテーブルと、ものすごく高級なステレオ、パイプオルガン、それにフルーツ用のボウル。その中には、たいてい“アップル”が盛られていましたね」

 と、笑って述懐する。

2人の30年にわたる交流を描いたアメリカン・コミック『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』より

 ジョブズと弘文の同居は、ジョブズが結婚するまでのおよそ5年続き、この間にジョブズは、弘文から『般若心経』に見られる大乗仏教の真髄や、坐禅の心を徹底的に学んだ。

 以下は、弘文の法話をまとめた小冊子、「弘文が語る『般若心経』」(”Kobun’s talks on the Heart Sutra”/私家版)からの引用。

 私たちを取り巻く感覚は、私たちの肉体の一部です。月、星、太陽、風、雨、すべては、あなたの肉体の一部なのです。

〈空〉と並んで、『般若心経』で大事な概念に〈縁起〉がある。〈縁起〉というと、一般には「縁起が良い、悪い」など、吉凶の占い的に使われることが多いが、ここでは「物事が、何かの原因によって生じること」「世界の在り方をそのまま示したもの」と、解釈するとわかりやすい。

 すると、〈縁起〉とは、この世の万物は〈空〉だということ。〈空〉とは、持ちつ持たれつ影響し合っているということ。だから、我執を捨て自分を空っぽにし、周囲と調和して生きていきましょうということ。周囲とは、私たちが住む地上の娑婆世界だけでなく、月、星、太陽、風、雨——私たちを取り巻くすべての宇宙を含む。

 ジョブズは、不遇時代に弘文と暮らしながら〈空〉と〈縁起〉を学んだ。その日々のなかで、事あるごとに他人を拒絶しどん底に落ちた傲慢男は、いつの間にか宇宙にたゆたい、次になすべきことが自然に見える人物になっていった。ジョブズ、奇跡の復活の背後には、圧倒的な“禅の力”があったのである。

ニューメキシコ州の山岳地帯に、弘文が開いたネイティヴアメリカン調な禅堂。ジョブズも訪れた。