禅僧の言葉(7)《人助け? 笑わせてあげることだよ》
若い頃、ジョブズとインド巡礼の旅に出た大学同窓生のダニエル・コトケによれば、「唯我独尊で人を人とも思わなかったスティーブが、弘文だけは特別扱いで敬意を払っていた」と証言する。
いったいなぜ、ジョブズは、それほどまでに弘文に惹かれたのだろう?
その理由には、柔らかな包容力のある弘文と、戦闘的なジョブズの相性のよさや、弘文が京大時代から培った洋の東西に通じた宗教観、世俗のなかでの修行を尊んだことなどがあげられるが、最終的な決め手は、弘文の〈慈悲心〉と〈泥中の蓮(でいちゅうのはちす)〉的生き方にあった。
慈悲は、キリスト教だけでなく、大乗仏教でも頻繁に登場する概念だ。釈迦は、この世を〈苦〉(自分の思いのままにならぬこと)と捉えたが、人々からその苦を取り除くために、見返りを一切求めず、他人の心の安らぎが、そのまま自分の安らぎなのだと胆に定めて、他者のために尽くすべきと説いた。それが慈悲心だ。
弘文は、出世欲もなければ世俗性もなく、慈悲に生きた僧侶だった。だから、物を乞われると財布ごと渡してしまうといったふうで、本人は、宿無しの上、いつも金欠だった。強欲なジョブズには、正反対なだけにさぞ魅力的に映ったろう。
笑わせてあげることだよ。
これは、ある時、弟子から「人助けは、どうするのがベストだろう?」と、問われた時の弘文の答えだ。弘文には、ギンギンに走り続けるジョブズを、ふと我に返らせる禅機の効いたユーモアのセンスもあったのだ。
そんな弘文は、金欠や家庭崩壊のほかに、飲酒問題も抱えていた。道に寝込んで留置されたことも一度ならずだった。ところが、そこでも、留置者や前科のある人々から人生相談を受けることになり、「これも僧侶の仕事だよ」と、本人は飄々としていたという。
宗教には、戒律を守って組織や集団の平安を保つ側面と、泥をかぶって衆生とともに生きていく側面の両面があるが、弘文は後者を生きた。〈泥中の蓮〉とは、清らかな蓮の花が泥から咲くように、汚れた境遇の中で清らかさを発揮することのたとえである。
ジョブズは、生後まもなく父母から捨てられ養子に出された、まさしく泥の池に生を享けた人物だった。その事実が長い歳月、彼を苛んだ。彼こそ、清水の聖人ではなく、〈泥中の蓮〉を求めたのだ。そして、弱冠20歳で弘文に出逢ったジョブズは、その時、すでにして弘文の本質を見抜いていたのである。