この最後の強取が行われてから6日後の1997年3月16日午前3時頃に、裕子さんは2階の部屋の窓から飛び降り、約300m離れた場所にある会社の事務所まで這うようにして逃げ込んで保護された。そして電話連絡によって駆けつけた前夫に付き添われて、病院に搬送されたのだった。
幼い娘を残した罪悪感による重いPTSD
なお、裕子さんと松永が出会ったきっかけや、その後の松永と緒方が組んで彼女を陥れていく経緯の詳細に関しては、これらの事件の冒頭陳述がなされた、2002年7月31日の第2回公判について触れる際に取り上げる。
ひとまず裕子さんの逃走後の状況について説明しておくと、彼女の逃走を知った松永と緒方は、翌17日の午後9時半に、運送業者に依頼して、監禁場所の『曽根アパート』にあったすべての家財道具を、当時別に借りていた小倉北区片野の『片野マンション』(仮名)に移している。その際、逃走するふたりと一緒にいたのは、彼らの長男(4)と次男(0)、さらにこの約1年前に父親を殺害されている当時12歳だった少女・広田清美さん(仮名)と、裕子さんの3歳の娘だった。
その後、扱いに困ったのか、松永と緒方は3月26日の早朝、裕子さんの娘を彼女の前夫宅前の路上に置き去りにし、発見された娘は前夫に保護された。娘は左足の膝頭の下と左足の前部に、通電の暴行によってできたと見られる化膿性の腫瘍があり、極度の空腹を訴えていたという。
福岡県警担当記者は語っている。
「捜査員によると、裕子さんは自身が長期間に亘って通電による暴行を受けたこと以上に、自分が逃げ出したときに、まだ幼い娘を残してきてしまったことに、ひどく自責の念を抱いていて、そのことがより重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こしているそうです」
とはいえ、裕子さんは2階から飛び降りた際に、彼女自身が腰と背中を地面に強打し、第1腰椎圧迫骨折及び左肺挫傷等の、入院加療約133日間を要する重傷を負っている。それはまさに命からがらの逃走であり、より危険を冒して、我が子を道連れにして飛び降りることへの躊躇があったとしても、致し方ないことだと思われる。