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“共感と共有のSNS”が生んだ、「書き手と読者が直接繋がれる」ことの危うさを考える

速水健朗×おぐらりゅうじ すべてのニュースは賞味期限切れである #2

note

速水 後からやって来て上澄みをさらっていくのがマスメディア。

おぐら でもそうなると、新しい才能を見つけた時に、人気が出るまでの期間はどうするのかっていう。これまでは雑誌なり番組が育てていた側面もあったはずで。

速水 今はマスメディアに頼らず、自分たちでネット経由で有名になって、というのが、むしろ王道だよね。ジャスティン・ビーバー以降というか。チャンス・ザ・ラッパーとかもミックステープのダウンロード数が多くて有名になっていった。ビリー・アイリッシュなんかは、もうちょっと巧妙にマスメディアのタイアップ的な仕掛けがありながら、ネットで有名を呼びましたみたいな話だけど。

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おぐら プロとアマチュアの境界も曖昧になってますし。90年代くらいまでは、別にスターにならずとも、プロでやっていけた時代とも言えます。ミュージシャンやカメラマン、ライターやデザイナーにしても、人気ランキング100位まではプロとして生活できていたとしたら、今はトップテンの10人に仕事が集中して、それ以下はアマチュアとして活動するしかないような。どのメディアも余裕がなくて失敗できないゆえに、リスク回避で人気を担保にしているんですよね。

ジャスティン・ビーバー ©Getty

速水 紙の雑誌は毎号どうにか埋めなきゃいけないし、全体の数ページなら何の保障もない企画や書き手に任せることができたんだよね。

おぐら 埋めなきゃいけないのはもちろん、1号終わったら次の発売日までにまたゼロから作らなくちゃいけないし、さらに1ヶ月もすれば書店やコンビニの店頭からは消えるので、新しいことに挑戦するにはいい循環だったと思います。

速水 これが1冊の単行本となると、書き手にとっても出版社にとっても、雑誌と同じような感覚では作れない。

おぐら 編集者としては、SNSでも同人誌でも、すでに自分の手である程度の人気を獲得している人に原稿を依頼するのと、まだ未知数の段階で「この人が書いたらどうなるんだろう」っていう状態で依頼するのでは、やっぱり全然違うんですよ。

速水 それはよくわかる。

おぐら 世に出た後、書籍化のタイミングで担当編集がつくのと、編集者と二人三脚で世に出るのとでは、アウトプットの質も変わってきますし。

速水 しかも、SNSやnoteを使って書き手と読者が直接繋がってしまうことの弊害はすごくあって。ファンの気をひくことだったり、実用ばかりを求める文章を書くクセがつくし、気づけば信者にものを売ってるのと変わらない構造になっているのが現状でしょう。

おぐら ファンから直接報酬を得るのと、出版社がいわばパトロンになって原稿料を支払うのでは、長い目で見た時に全然違う作家が育ちます。

変わりつつある「一流編集者」の定義

おぐら 個人発信のSNSやnoteの場合、何がお墨付きの代わりになるかといえば、フォロワーの数ですよね。PV数という数字が評価の軸になる。

文章、写真、イラスト、音楽、映像などの作品を配信するウェブサイト「note」(公式HPより)

速水 出版社の会議で企画を通すときに、著者のフォロワー数が話題になるっていうのは本当らしいよ。

おぐら 原稿やテーマの良し悪しではなく?

速水 まだ本を出していない数十万フォロワーの人を探すのが一流編集者です、みたいな。ネットで話題を集めることがプロモーションの一環という話なら、もうそれは当たり前すぎる話なんだけど、そことフォロワー数が一緒くたにされるのはアタマが悪いよね。

おぐら 価値があると信じたものを広めるのは編集者の大事な使命ですが、今は原稿をきちんと読めるとか、世の中に対しての影響や問題意識のあり方よりも、とにかくバズらせることが偉い、みたいなムードになっています。

速水 今はちょっとその次の段階に行ってる気もする。2020年前半で流行ったものとして、『鬼滅の刃』と『100日後に死ぬワニ』があったわけだけど、どちらも誰もそのヒットの理由をちゃんと説明できずに、ヒットした理由の推理合戦になっている気がする。こちらもそれに参戦するために、両方とも読んでみたけど、まったくヒットの理由がわからないという。『鬼滅の刃』は全場面がセリフで説明されていて、昔だったら「説明セリフ多すぎ」の一言で編集者に書き直しされていただろうけど、そこを開き直って描いたのが新しい。ワニは、まったくわからなかった。