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「5万円までのギャラなら直営業は認める」報道――吉本興業は1ミクロンも変わらなかったのか

吉本興業史 #2

2020/06/11
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 1912年に創業し「100年企業」へと成長した吉本興業。大阪は天満天神の一寄席からはじまった同社は、今や世界中にエンターテイメントの輪を広げている。所属芸人の「闇営業」問題など同社のブラックな側面が強調される昨今だが、その拡大の歴史にはさまざまなキーパーソンの存在があった。

 吉本興業で宣伝広報部を設立した伝説の広報・竹中功氏の著書『吉本興業史』(角川新書)より、一部を抜粋する

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人を笑わすエンタテインメントが本業

 林裕章会長が亡くなったのは、2005年(平成17年)1月だ。

 中田カウスの回顧によれば、裕章会長は亡くなる間際、「紳助のこと、頼むぞ……」とカウスに言っていたそうだ。裕章会長は紳助のことを買っていて、その当時の紳助は、吉本所属マネージャーへの暴行事件で謹慎していた頃だったからだ。裕章会長が亡くなると、マサ氏は「大﨑の鼻の先に“社長”って書いたニンジンぶら下げて、一生走らせたる」とも口にしていたそうだ(『襲撃 中田カウスの1000日戦争』参照)。聞かされて気持ちのいい話ではない。

 2006年(平成18年)~2009年(平成21年)の間は、吉野伊佐男社長、大﨑副社長というツートップ体制で難局を切り抜けた。すでに書いているように、2009年には「中田カウス襲撃事件」があった。各事業を分社化して、吉本興業が束ねる「持株会社制」を導入したうえで、2008年(平成20年)にはコンプライアンス推進委員会を設置し、2009年にはTOB計画を発表した。それでも、2011年(平成23年)には「島田紳助の引退騒動」が起きてしまう。

 私も長年、大﨑とは多くの仕事をともにしてきた。精力的な人であり、手数で勝負する人だといえようか。『コミックヨシモト』なども、わかりやすい例のひとつだ。思いついたことは迷わず実行に移して、失敗したら即撤退。そのあたりの感覚は、やはり鋭い。

一定の成功をおさめた全国芸人移住プロジェクト

 地域への密着を考えた「あなたの街に住みますプロジェクト」なども、おもしろい試みだといえる。名称が示しているままのことで、芸人とスタッフを全国各地に住まわせて、地域密着型でやれることを探っていくものだ。

©iStock.com

 このプロジェクトは、2011年4月に開始されている。だからといって、東日本大震災があったから始めたわけではない。

 この年の年頭会見では、全国47都道府県で活動するエリア担当社員を募集すると発表していた。その準備のため、仙台で仮の事務所を借りていたスタッフが被災している。震災後、あらためてスタッフを採用し、47組の芸人を全国に移住させたのだ。知名度のある芸人は少なく、地域にゆかりがある若手コンビが多かった。それもよかったのか、地域ごとにそれなりの成果をあげられている。2013年(平成25年)秋には、私も東北6県を任される「東北担当住みます専務」に就き、仙台や会津若松に住民票を移した。

 このプロジェクトは、さらに「アジア版」、「大阪市24区版」と拡大(極地化)していき、事業としての発展をみせている。今後、このプロジェクトをBS放送などと連携させていくという。