昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

“かつて”の吉本興業は芸人を守り続けていた――「刺し違えても吉本の楯になる覚悟で伺いましたんや」

吉本興業史 #1

2020/06/11

 吉本興業はどこへ向かうのか。“闇営業問題”が世間を騒がせ、「吉本興業VS芸人」の事態にまで発展した令和元年。“芸人ファースト”を標榜するファミリーの崩壊はいつ始まったのか。

 吉本興業は、創業当初から現在まで常に順風満帆だったわけではない。1912年に大阪・天満天神で吉本泰三が事業を興して以来、吉本興業が「100年企業」となり、日本トップクラスの芸能プロダクションにまで成長した裏には、時代の「半歩先」を行くビジネス勘があった。

 吉本興業で宣伝広報部を設立した伝説の広報・竹中功氏の著書『吉本興業史』(角川新書)より、一部を抜粋する。

◇ ◇ ◇

万歳から万才、そして漫才へ

 安来節が人気で、吉本興業の勢いが止まらなくなっていた頃から、落語の人気にはかげりが見えてきていた。

 そこで、目をつけたのが「万才」である。もともと民俗芸能だった「万歳」が寄席演芸となり、やがて「万才」という字が使われるようになった。その娯楽性が高まってくると、古典芸能よりも肩ひじ張らずに楽しめると、人気になってきたのだ。

 1927年(昭和2年)8月にまず、松竹と提携して『諸芸名人大会』を開いた。諸芸といっても、実質的には万才大会だった。

『諸芸名人大会』が成功したので、12月には『全国萬歳座長大会』を開催した。

 その後も万才を推していき、1930年(昭和5年)には千日前で『万歳舌戦大会』を開催している。この時期は「万才」や「萬歳」の表記が入り交じっていた。

 この大会では、入場料を払うと「投票権」が与えられ、お客さんの投票によって人気番付を決めるシステムになっていた。公演期間は10日で、3日目からは新聞紙上で途中経過も発表された。順位をあげるために親類縁者に頼む者もいれば、客席を回る者もいたという。『万歳舌戦大会』は、『M-1グランプリ』の先駆けだったといってもいい。『AKB48選抜総選挙』に通じる面もあったといえるだろう。

※写真はイメージです ©iStock.com

「十銭万才」の登場で、万才が大衆化

 この頃、吉本では「十銭万才」も始めた。「大阪唯一の萬歳道場」と謳っていた南陽館の入場料を、10銭均一にしたのだ。50銭、60銭といった木戸銭をとる寄席もあった中で、10銭は破格の安さだった。当時、きつねうどんがそれくらいだったというから、いまでいう500円くらいの感覚が近いだろうか。

 1日3回の興行に客が押し寄せた。南陽館の席数は200ほどだったのに、1日の入場者数は1800人にまでのぼった。学生やサラリーマン、インテリ層までが「安価な息抜き」として寄席に来るようになったのだ。

 この十銭万才によって、大衆に漫才人気は広がった。

 さらに大きかったのは、この年、「横山エンタツ・花菱アチャコ」のコンビが誕生したことである。正之助がプロデュースしたコンビだったといっていい。

 エンタツ・アチャコの万才は、それまでの万才とはまったく違う新しいものだった。

 着物ではなく洋服で舞台に上がり、「キミ」「ボク」と呼び合う。歌も踊りもなく、「しゃべり」だけで勝負する。話のテーマを「日常」にしていたのも、それまでの万才にはないことだった。