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“かつて”の吉本興業は芸人を守り続けていた――「刺し違えても吉本の楯になる覚悟で伺いましたんや」

吉本興業史 #1

2020/06/11
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『マーカス・ショウ』を招聘した林弘高

 林弘高の功績も大きかった。弘高がやったことの中には、日本の芸能史に太字で刻まれて然るべきものがある。

 なんといっても特筆すべきなのは、アメリカの『マーカス・ショウ』を招聘して、東京の日本劇場での公演を実現させたことだ。これをやったのが1934年(昭和9年)だ。

 ショーガールズにコーラスガールズ、プリマドンナ、バレリーナ、タップチーム、道化役者にアクロバティックチーム……が次々に舞台に上がり、歌や踊り、寸劇などを展開していく。絢爛豪華なショーである。メンバーの中には後に俳優、ダンサーとして活躍した若き日のダニー・ケイもいた。

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 関係者から招聘の売り込みを受けた弘高は、資料写真などを見ただけで、このショーがどれだけすごいものであるかを理解した。すぐに東京から大阪へ電話をかけて、せい(吉本興業創業者)を口説いたといわれる。

 当時の日本人にとっては「ハダカ踊り」に見えるようなものも含まれていたため、「そんなものを帝都でやらせるわけにはいかない」と、内務省や外務省からは反対の声があがったという。実際、公演前には警視庁興行係員による検閲が行われ、「ズロースの下は股下2寸以上」にして、「ヘソや乳房はむき出しにしないで乳バンド(ブラジャー)を着用すること」など、厳しい干渉を受けた。そのため、ショーでは本来の衣装ではない白布を腹部に巻くこともあったのだ。

『吉本ショウ』と「大日本東京野球倶楽部」

『マーカス・ショウ』の名物のひとつである「銀箔塗りの裸女」というショーにしても、乳房やヘソを隠したうえで、全身を銀粉で塗りつぶしていた。それでも全身の曲線はあらわになるので、当時の日本人はヌードを見るのと変わらない刺激を受けたといわれる。

※写真はイメージです ©iStock.com

『マーカス・ショウ』については、多くの証言や評論が残されている。それらの資料を見れば、すさまじい人気を博していたことや、この後の日本のショウ文化に与えた影響が計り知れないほど大きなものだったことがわかる。

 吉本でも、翌年から『吉本ショウ』をやっている。

『吉本ショウ』では川田義雄(のちの川田晴久)を中心とした、「あきれたぼういず」が活躍。日本のコミックバンドの元祖的存在として人気を博した。

 弘高の発案によって、吉本興業が「大日本東京野球俱楽部」に出資して株式を保有していた事実も、あまり知られていないのではないだろうか。

『マーカス・ショウ』を招聘したのと同じ、1934年のことだ。タイガースファンの大阪人が聞いたら怒るかもしれない。大日本東京野球俱楽部とは、のちの読売巨人軍である。

 この年、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁するメジャーリーグ選抜チームが来日して、全日本チームと各地で対戦する興行が成功していた。それを受けてつくられたのが、「大日本東京野球俱楽部」だった。こうした段階で迷わず、「商売になる」と考えられる嗅覚があったのだろう。それが弘高のすごいところだ。弘高は、ベーブ・ルースのサインボールを持っていたともいう。弘高の嗅覚は、戦中戦後も大いに吉本を助けることになる。権利を手離さなければ、“吉本巨人軍”だったかもしれない。