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“かつて”の吉本興業は芸人を守り続けていた――「刺し違えても吉本の楯になる覚悟で伺いましたんや」

吉本興業史 #1

2020/06/11
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「メディアミックス」の試み

 はじめて登場した際は不評だったともいわれるが、すぐに人気は爆発した。春団治のラジオ初出演の少し前のことだ。その後、ラジオの寄席中継が行われるようになったときも、エンタツ・アチャコが登場して「早慶戦」を披露している。「早慶戦」は、当時、人気だった大学野球をネタにしたもので、この放送前にはレコードにもなっていた。

「はじめてエンタツ・アチャコを見たとき、とてもショックを受けたんだけど、同時にこれからは万才も脚本の時代だと思いました」と、橋本は振り返っている。そこから万才(漫才)のための作家が誕生していったのだ。

 それまで寄席一筋でやっていた吉本は、この頃から、ラジオ、レコード、映画、雑誌も利用するようになっている。いまでいうところのメディアミックスに近いことを展開していったのだ。それができたのも橋本の存在が大きかった。

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 先にも書いたように、万才に「漫才」という字を当てることを発案したのも橋本だ。この人が発行した『吉本演芸通信』の中で、「漫才」という字を使うようになったのが最初である。万才と書くならともかく、万歳と書けば、万歳三唱のバンザイが思い浮かべられやすい。この字を当てていると、厳粛で硬い印象もある。

※写真はイメージです ©iStock.com

大衆より半歩先が「ちょうどよい」

 橋本が漫才という字にしてはどうか、と考えたのは、当時、漫談も人気だったからのようだ。そのため、漫才としたほうが親しみやすいのではないかと判断したのである。また動く「漫画」、それが「漫才」という言い方もあったようだ。

『M-1グランプリ』の前身といえなくもない『万歳舌戦大会』が開催された1930年(昭和5年)。漫才という表記が生まれた1933年(昭和8年)。エンタツ・アチャコの「早慶戦」が全国のラジオから流された1934年(昭和9年)などは、漫才史においては特別な意味を持つ年だといえる。

 橋本のあとを継いで社長になった八田竹男が、よく口にしていた言葉がある。

「この仕事、大衆より半歩、先を行け。同じところでは遅すぎる。一歩先では行きすぎる。この加減が肝心だ」

 実際の吉本興業はどうだったろうか? 吉本という会社は、創業当時からやることすべてが時代を先取っていたような気がしてならない。