「お前の命を取るが、それでもええか」
少し話を戻すと、漫才の成功は思わぬ事態も生み出していた。
先にも書いた『諸芸名人大会』は松竹と提携して開催したものだったが、これが成功すると、松竹のほうでも、漫才はこれから大きなビジネスになると気がついたようだ。吉本所属の漫才師を引き抜きにかかったのだ。
指をくわえて引き抜き行為を見ていられないと、立ち上がったのが正之助である。
このときの様子は『吉本八十年の歩み』にもまとめられている。
少し引用させてもらう。
◆
「正之助はすぐさま、松竹の事務所へ乗り込んだ。当時、松竹は弁天座を含む道頓堀五座[浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋]すべてを手中に収め、歌舞伎や新劇など、芝居ではわが国最大の興行会社であった。
対する吉本は、大阪をはじめ、東京、横浜、名古屋、京都、神戸に30軒の寄席を所有し演芸の世界では一大勢力にのし上がっていたものの、松竹に比べると、まだ見劣りがした。格が違った。
しかも、松竹の社長──白井松次郎はそのとき50歳、正之助は28歳の若造だった。『萬歳が当たったと思うたら、すぐ裏へ回って芸人の引き抜きにかかるとは、何ごとや。大松竹のすることか。俺が飯を喰えんようになったら、お前の命を取るが、それでもええか』
正之助は迫った。気迫に圧倒されて、白井は非を認めて謝った。そして、
『吉本の芸人には、今後いっさい、手を出さない』
という証文を書いた」
◆
お前の命を取る──というのも、気魄がこもった言葉だ。
「刺し違えても吉本の楯になる覚悟で伺いましたんや」
竹本浩三氏がまとめた『笑売人 林正之助伝 吉本興業を創った男』(大阪新聞社、1997年)によれば、このときに正之助が切ったというタンカは、さらにきわどい。
「刺し違えても吉本の楯になる覚悟で伺いましたんや」
「仮に刑務所にブチ込まれても吉本を守ります」
いまの世の中であれば、こんな言葉を口にした時点で間違いなくアウトだ。
ビッグボスは、この頃から熱くて怖い人だったのがわかるエピソードではある。それだけ吉本を愛していたのだともいえる。
創業夫婦がいて、正之助がいて弘高がいた。
さらに、橋本などのスタッフも一族を助けた。そして、春団治やエンタツ・アチャコをはじめ、芸を愛し、吉本を愛する芸人たちがいた。
そんな人たちの想いが、創業期の吉本興業を育てたのである。