携帯電話が普及する前、我々はどこかで「待ち合わせ」をしなくてはならなかった。
そして「噴水」こそが、都市における待ち合わせ場所の代表格だったのである。
なぜ人々は集合場所として噴水を選んだのか。「水場に集まりたがる」という動物的本能を刺激しているから、というのも理由の一つだろう。広場や公園といった人工的な公共空間において、水の流れる様子は風景のアクセントとなり、わかりやすい目印として機能したから、ということも考えられる。
人々がすい寄せられるように集まる“噴水”という現場
ここで注意しておきたいが、ただ水を循環させるだけの噴水それ自体には、なんの生産性もない。当たり前だが、地下から水が湧いて出てくるホンモノの泉とは、意味においてまったく異なる。清らかなイメージを表現するためだけの人工泉、水場の仮想空間に過ぎないのだ。
しかしそれこそが、噴水が待ち合わせスポットとなる最大の理由ではないか。そうした無意味な空間だからこそ、人々はそこで「なにもしない」ことが許される。ただ集まるだけ・待つだけという時間を過ごすのに、ぴったりな場所だったのだ。
誰とも知らぬ人々が、無目的に集まる場所。それはまた、危ういバランスで保たれている不安定な場所でもある。それでも噴水が大きく水を吹き上げているうちは、まだ大丈夫。
しかしいったん水の流れが澱んでしまえば、たちまち怪談が生まれてしまう。
大阪・梅田地下街にある「泉の広場」には、謎の「赤い女」が出没する……。噴水と怪談の組み合わせとしては、日本一有名なエピソードだろう。