1989年、多大な犠牲を払って五代目体制が誕生し
新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。
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以後、ヤクザジャーナリズムは急速に衰退し、多くの夕刊紙が潰れた。マスコミが暴力団から離れていくなか、逆風を逆手にとって『実話時代』が暴力団専門誌へと変貌し、一定の成功を収めていた。しかし、対岸の火事として山一抗争を見ていた山口組以外の暴力団たちも、マスコミ対応に関しては慎重で、『実話時代』の取材になかなか応じてくれない。暴力団ルートを開拓し、新しい取材先を探してくるのは当時私の役目だった。
任俠道に罹患
「ヤクザ取材をとってこい!」
編集部からそう命令されても、どうしていいか見当が付かなかった。とりあえずめぼしい組織のトップに片っ端から手紙を書いた。暴力団トップに出した手紙は、そのほとんどが無視された。それでも30通以上出したので、4組織が取材の許可をくれた。
取材許可をくれたのは、そのすべてが西日本の組織で、それも全員が戦中派だった。予科練崩れや特攻隊の生き残り、人間魚雷・回天の乗組員だった人もいた。
写真は自分で撮れるので、カメラマンは連れず、ライターと2人で取材に出かけた。親分たちは、クレームでぶつかり合った山口組幹部たちとなにもかもが違った。剛胆で、気さくで、礼儀正しく、紳士である。通常では知ることのできない社会の深層に触れた心地で、私は完全に舞い上がった。そのテンションのまま記事を作っていたのだから、私同様の世間知らずが読めば、ヤクザに憧れただろう。ある程度世の中のことを知った人間なら、記事の虚像を楽しむことが出来るかもしれない。しかし、書いてあることをそのまま鵜吞みにすれば、ヤクザ=男の鑑となってしまう。
職業としての任侠系右翼団体
とにかく……親分たちはなにからなにまでまっとうだった。たとえば親を大事にしろ、女房を大切にしろ、噓をつくな、約束を守れ、他人の損得抜きで行動しろ……どこをとっても反論の余地がなかった。
〈ヤクザはこんな立派な人たちなのか……〉
言動のすべては道徳的で、正当なものに思えた。印象に残っているのは、誰もが「地域のために、日本のために力を尽くしたい」と力説していたことだ。職業としての任俠系右翼団体が存在することを私は知らなかった。