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若者は長い講義を聞かない……学生たちの悩みに全力で答える「人生相談」をしてわかったこと

藤本由香里が『道行きや』(伊藤比呂美 著)を読む

2020/06/24
『道行きや』(伊藤比呂美 著)新潮社

 美しい文章である。

 少し前に話題になった、藤原辰史「パンデミックを生きる指針――歴史研究のアプローチ」を読んだ時にもそう思った。人文学の精髄とも呼ばれた文章。若い頃にはこうした文章をずいぶん読んだものだけれど、この類の文章に久しぶりに触れた、と。

 カリフォルニアと、年老いた両親のいた熊本とを20数年間往復し、数年前に夫を亡くして帰国し、早稲田大学の教授となり、今度は熊本と東京を往復することになった詩人・伊藤比呂美さんのエッセイ『道行きや』にもその匂いがある。

 長い時間をかけて涵養されたなにかがなくては書けない文章。射程の長い文章。射程が長いだけではなく、それが軌道を伸ばしていく途中でさまざまなものを巻き込んでいずれ普遍的なものにつながっていく文章。

 しかし一方で、この類の文章を、今の若い人たちは受けつけにくくなっているだろうなとも思う。

 大学で講義をしていて、若い人たちがだんだんと長編小説のような講義を受けつけなくなり、一話完結で何を伝えたいかがすぐにわかる講義を求めている、と感じるようになった。

 そうであるならば比呂美さんが大学で教え始めた当初、学生たちからの攻撃にあって戸惑ったのも無理はない。比呂美さんは書く。「むしろあちこち広げながら話していくことで、聞き手はいずれ、これは、ただの個人的な与太話ではなく、普遍的なことがらなのだということに気づくのだ」。

 しかし学生はそれを理解しない。苦闘する比呂美さんは「人生相談」という形でその解を見出す。300枚からのリアぺに書かれた学生たちの悩みに全身全力で答えていく。短時間で答を求められるような社会になったからといって、ぐるぐるとした悩みが消えてなくなるわけではない。そこに「生」が立ち上がる。

 学生たちはやがて熊本にもやってくるようになる。

 熊本には犬がいる。カリフォルニアから連れ帰ってきた犬だ。比呂美さんは犬と散歩し、しばしば山に入っていく。むせるような山の匂い。去勢されているのに興奮すると赤いペニスをにゅうと出す犬。やがてこの犬は、説経節の道行きの同道者だと見えてくる。

 さてこの本はそれぞれの話が不思議な位置で始まる。終わりでふっと梯子を外される気がすることがある。半ば以上読んで気づいた。各章は“終わりが決まっている”のだ。各章の文章を左ページぎりぎりまで置く。だから読者はその章が“どこで終わるのかわからない”。続くつもりでいると、ふっと終わる。生き物の道行き。

 北原白秋の「落葉松」の一節が耳元によみがえる。

「からまつの林の道は  
われのみか、
ひともかよいぬ。
ほそぼそと通う道なり。
さびさびといそぐ道なり。」

 比呂美さんの声が重なる。「(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。」

いとうひろみ/1955年、東京都生まれ。78年『草木の空』でデビュー。80年代の女性詩ブームを牽引する。『良いおっぱい 悪いおっぱい』『ラニーニャ』『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』『切腹考』など著書多数。現在、早稲田大学文化構想学部教授。
 

ふじもとゆかり/明治大学国際日本学部教授。専門は漫画文化論・ジェンダー論。著書に『私の居場所はどこにあるの?』など。

道行きや

比呂美, 伊藤

新潮社

2020年4月24日 発売

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