「他人を下にする」ことと、「私が上になる」ことが同一視
こういう人を仮定してみましょう。自分のことをどうしても偉いと誇示したい、とても虚しい人。でも、これといって偉いと証明できるものがありません。というか、そういう人に限って、人の「価値」というものをろくに考えていなかったりします。
先に紹介したキム・ジへ教授の「バンマル、彼らの身分社会」で、他人より勝るのが年齢だけの人たちであればあるほど、相手の年齢を気にするという趣旨の内容がありましたが、それもまた、同じ問題を指摘していると言えましょう。
だから、「私は偉い」の根拠の代わりに、他の誰かが「私より卑しい」の根拠を見つけようとするのです。いいや、根拠を見つけるというより、作ろうとする、と書いたほうがもっと適切でしょう。
実は、事例にもよりますが、いじめ問題などにも、似たような側面があります。加害者は、自分より弱い被害者が惨めになればなるほど、自分の価値が上がると勘違いをしています。そして、その被害者が状況を改善するために努力し、立ち直ろうとすると、加害者は恐れをなし、さらに被害者を苦しめます。被害者が立ち直ると、自分(加害者)の価値が下がると思い込んでいるからです。
いじめ問題にも見られる侮蔑の論理
そのために暴力を用いることもありますが、さすがに日常レベルで使うのは、暴力や何かの策略ではありません。言語です。自分と相手が同時に理解できる、ずっと前からその社会の文化と同居してきた、言語です。加害者は、被害者に常にこう言い聞かせます。「お前はダメなやつだ。お前はダメなやつだ。お前はダメなやつだ」。
「お前はダメなやつだ」というより、実は、「ダメなやつでなければならない」という意味に近いでしょう。そうでないと、自分の階級が下がると思い込んでいるからです。
ソン・ジェリョン教授の寄稿文で指摘している、韓国社会の「侮蔑のやり取り」もまた、「他人を下にする」ことと、「私が上になる」ことが同一視されているからこそ、成立します。他人を下にするもっとも一般的な表れが、相手に侮蔑を与えること、すなわち「下待」することです。そして、それこそが、自分が「上になる(尊待される)」と同じことになってしまったのです。