私たち日本人にとって敬語とは対話の相手への礼儀の一種であり、社会的な「身分」の標識というよりも自身の敬意を表明するためのツールだといえるだろう。日本語の敬語は他人との関係性を規定する表現ではあるが、誰にどのような言葉遣いをするかは時と場合によって相対的に変化する。
生粋の韓国人として日韓の文化を比較する著作家・シンシアリーによれば、韓国語の敬語はシステムとして崩壊しているという。『「高文脈文化」日本の行間~韓国人による日韓比較論~』(扶桑社)より、一部を引用する。
◇◇◇
他人を下待したくて仕方のない人の量産
無理して明るく書いてみますと、韓国語の敬語システム崩壊パターン、その一!「他人を下待(ハデ)したくて仕方のない人の量産」……の巻、です。ここでも、良き参考になりうる専門家の見解を一つ紹介しましょう。
以前は、韓国内でも、新聞でもテレビニュースでも、大学教授の書いた本にもちょっとエロい表紙の週刊誌にも、韓国社会の様々な問題を指摘する声が載っていました。韓国人が「ウリ(私たち)」と「ナム(他人、ウリ以外)」を極端に分けて考える問題、思わしくない自分の立場を他人のせいにするために「私の正当な権利を、不当な手段を使った誰かに奪われたからだ」と考える恨(ハン)の問題などなど、保守かリベラルかに関係なく、親日も反日も関係なく、韓国社会の捨てるべき問題、言わば本当の意味での積弊、社会に積もった弊害を何とかすべきだとの指摘が、盛り上がっていたのです。
あれは、私が思う韓国社会の問題点と一致する内容が多く、大変興味深いものでした。例えば、漢方医コミュニティーを中心に、恨に対して医学的なアプローチを試みる人たちもいましたし、中央大学校の故チェ・サンジン教授のチームなど、「ウリ」関連の論文や書籍を積極的に発表するグループもありました。
国への批判が、民族への批判と混同される
それらは、私がシンシアリーとして書いてきた韓国社会の問題点においても、本当に素晴らしいレファランス(参考資料)でした。ですが、残念ながら、最近、そういう資料を見つけるのは容易ではありません。
いつからこんな話が「社会通念的に」タブー視されるようになったかは不確かですが、個人的に、2002年ワールドカップで韓国チームがベスト・フォーに進出したときから、「韓国への批判」が「悪いこと」というレッテルを貼られるようになったと見ています。本当はもっと多くの事案が複雑に絡まっているでしょうが、大まかなタイミングが、そう感じられます。
ちょうど、2002年は親・北朝鮮思想の強い金大中(キムデジュン)政権、韓国で言う「左派政権」の頃で、社会全体が、韓国たる国という側面より、韓民族(朝鮮民族)たる民族という側面を強調するようになっていました。
余談ですが、これは北朝鮮への敵意を弱め、民族の完成である「南北統一」を扇動する効果があります。韓国という社会(国)に対する批判が、民族という聖域への批判と受け止められるようになったわけです。