「日本に併合されたおかげで近代化できた」はタブー
米国の政治学者デイヴィッド・イーストン氏は、著書『政治体系-政治学の状態への探究』にて、政治とは「社会に必要な価値の権威的配分」だと定義しました。社会で一般的に必要とされるけれど、社会構成員全員分を満たすには足りない様々な価値を、権威的に割り当てる行為が政治である、と。「尊」と「蔑」がコインの裏表のようになっている社会では、尊待が「社会が望んでいるけど全員分は存在しない価値」であると同時に、なんと、「侮蔑」もその価値の一つになります。なぜなら、侮蔑することで尊待されると信じられているからです。
全員に行き渡るはずの無い価値を、侮蔑をばら撒いて求めている社会。侮蔑されないためには侮蔑しないといけない社会。それが、どれだけ疲れることか。そういえば、私もそんな空間の中に長らくいたせいか、似たような感覚を何度も経験しました。以前にも、ブログに「韓国社会には、『誰かを悪いと叫んでいるから私は悪くない』とする心理がある」と書いたことがあります。いま思えば、それも寄稿文で紹介されている見解と、ほぼ同じ意味の嘆きでした。
「韓国が善」であるために「日本は悪くないといけない」
韓国社会は儒教思想が強く残っているため、ここでいう「上下」が、「善悪」として表現されることもあります。韓国の国是、または国技(?)とも言える「反日思想」ですが、これは日本を「絶対悪」とすることで韓国が「絶対善」になる構図の歴史観です。あと少しで韓国(朝鮮)が自力で近代化できたはずなのに、日本の植民地にされた(実は併合されただけですが)せいで、台無しになってしまった、などなどです。
でも、この歴史観は、「韓国(朝鮮)が何か褒められるに相応することをやったのか」という側面が完全に欠けています。「日本が責められるに相応することをやりまくった」を主張することで、その欠けた部分を覆い隠し、全てを正当化しようとします。だから、「日本に併合されたおかげで近代化できた」とする意見すらも、韓国ではタブーとされています。日本に併合されたのは「悪いこと」で、近代化は「良いこと」なのに、それが両立するはずがない、あってはならない、というのです。
なぜなら、それが両立してしまうと、「韓国は自力では近代化できる国ではなかった」という客観的な歴史が姿を表すからです。先に、相手を罵ることで自分の格が上がるとする内容で、イジメ加害者の話をしましたが、反日思想もまた「日本が悪い(下)」から「韓国が良い(上)」の構図を無理矢理作るためのものであり、日本は悪いというより、「日本は悪くないといけない」に近い領域にまで達しています。